▪はじめに
京都では、「京都三大祭り」と呼ばれている葵祭・祇園祭・時代祭が毎年行われています。
なかでも時代祭は、平安遷都1100年を記念して開催されるようになったお祭りで、同じく平安遷都1100年を記念して建てられた平安神宮で行われるお祭りです。
今回は、時代祭に関係の深い「平安遷都の日」という記念日について雑学と共に紹介していきます。
目 次
平安遷都の日とは
平安遷都の日は、毎年10月22日にあります。
この記念日は、794年(延暦13年)の10月22日に桓武天皇が長岡京から山背国葛野郡宇多村(現在の京都市)に作った新しい都に遷都したことに因んで制定されました。
この新しい都は同じ年の11月8日に「平安京」と名付けられ、1869年(明治2年)に都が東京に天皇が移り住む(奠都(てんと:前都を廃さずに政治の中枢をうつすこと))までの1000年以上の間、帝都とされていました。
▪意味
平安遷都の日には、794年(延暦13年)10月22日に都が平安京に遷都されたことを記念する意味があります。
▪由来
平安遷都の日は、794年(延暦13年)10月22日に桓武天皇が長岡京から平安京に遷都したことに由来して制定された記念日です。
▪イベント
京都市の平安神宮では毎年10月15日~10月23日にかけて、京都の三大祭りの1つである「時代祭」が行われています。
時代祭は、平安神宮と平安京遷都1100年を記念する行事として1895年(明治28年)から始められました。
時代祭の1番の見どころは、10月22日に行われる「時代行列」です!
時代行列とは、2000人の京都市民が明治維新から平安時代までの歴史上の人物や庶民の姿に扮して練り歩いたり、平安神宮のご神体である桓武天皇と孝明天皇の御神霊が乗られた御鳳輦(ごほうれん:神輿のこと)などが行進するもので、これを見るために国内外から多くの人が訪れます。
明治時代から平安時代まで8時代に分けられた行列は太鼓や笛の音に合わせ2時間かけて遡っていくもので、全ての時代において資料に基づきファッションや祭具などを正確に再現していてとても見ごたえのある行列です。
時代行列は、正午に京都御所を出発し、烏丸丸太町→烏丸御池→河原町御池→三条大橋→三条仁王門通→平安神宮のルートを行進し、当日は有料観覧席も設けられます。
日本の歴史に触れることができる時代祭に興味のある方はぜひ足を運んでみてください。
平安遷都の雑学
<なぜ平安京に遷都したの?>
かつて、平安時代以前は天皇が代替わりしたり天災や疫病など悪いことが続いたりすると必ず「遷都」が行われていました。
しかし、桓武天皇が平安京に遷都して以降、都はずっと平安京のままでした。
それはどうしてなのでしょうか?
平安京に遷都したのは、桓武天皇が長岡京に遷都してから10年後のことでした。
長岡京は3つの川があり物資の運搬や衛生面において平城京よりも格段に優れていて、そのうえ政治的にも桓武天皇に都合の良いすばらしい都だったのですが、たった10年で遷都せざるを得ない事態に陥ってしまったのです。
それは、桓武天皇の弟で皇太子でもあった早良親王の怨霊が原因とされています。
早良親王は桓武天皇に長岡京の造営を任されていた藤原種継の暗殺に関わったとして皇太子の地位を廃され流刑となってしまいます。
納得いかなかった早良親王は流刑地の淡路に向かう途中、自ら絶食し命を落としてしまいました。
早良親王の死後、桓武天皇の母親や后が次々と病死し、次の皇太子となった安殿皇子も病気にかかってしまいます。
また、同じ時期に飢饉や疫病が大流行し、これらは早良親王の祟りによるものだと恐れられたのです。
そこで桓武天皇は早良天皇の祟りを避けるため、陰陽師が選んだ土地である山背国葛野郡宇多村に遷都することになったといわれています。
また、長岡京にある3つの川は大きな利点であったのですが、10年間に2回も洪水を起こしてしまったことも遷都の理由とされています。
平安京は、肥沃で交通の便もよく、当時最先端だった唐の都・長安をお手本とした優れた都として讃えられました。
桓武天皇が崩御した後、都を平安京に残すことを良しとした嵯峨天皇と平城京に戻したいと考えていた平城上皇との対立が起こりましたが、嵯峨天皇が勝利し平安京を永遠の皇居と定めたため、平安京は1000年の歴史を刻むこととなったのです。
<平安貴族はとても忙しかった?>
平安貴族というと、和歌を詠んだり恋の駆け引きに忙しかったり蹴鞠をして遊んでいたりとなんとなく優雅にのんびり生活していたようなイメージがありませんか?
しかしそんな生活をしていたのは一握りの上流貴族だけで、中級や下級の貴族は超過密スケジュールのもと、とても真面目に働いていたのです!
下級貴族の1日はまだ日も昇らない午前3時に鳴り響く、開諸門鼓(かいしょもんこ)という太鼓の音から始まっていました。
開諸門鼓とは御所の扉が開く合図で、貴族たちはこの音を目覚まし時計に起きていたのです。
起きて最初にすることは占いでした。
平安時代はほとんどのことを占いによって決めていたからです。
その日出勤するかどうかも占いで決めていて、起きてすぐに自分が属する星の名前を7回唱え、星と暦と自分の顔の相をみて占い、結果が悪いものだったらその日の仕事はお休みしていました。
占いが悪い結果でなければと、前の日のことを日記に書き、朝がゆを食べたら歯磨きをして身支度を整え、午前6時に出勤します。
出勤したら午前中はそれぞれの持ち場で仕事をし、午後の仕事はシフト制で時折夜勤で当直勤務をすることもありました。
中流階級の貴族は職種にもよりますが仕事は午前中で終わり、家に帰って食事を摂ります。
午後からは蹴鞠をしたり和歌を詠んだりします。
これらは一見優雅な遊びをしているように感じられますが、蹴鞠や和歌も貴族社会では大切な教養の1つでした。
これらが上手いと周りから一目置かれ、良縁に恵まれたり出世することができたりしていたので、貴族たちは遊びではなく本気で取り組んでいたのです。
夜は午後4時に夕食を摂って日が沈んだら寝るのですが、夜勤があったり夜の儀式が執り行われたり上司主催の宴に呼ばれたり意中の女性を口説きにいったりと、徹夜をする日も少なくなかったようです。
このように、平安貴族も現代のサラリーマンのように多忙な生活を送っていたのです。
▪まとめ
京都には何度か旅行で訪れたことがあり、かつてそこに天皇や貴族たちが暮らしていて煌びやかな生活をしていたんだなあと感慨深く感じていたのですが、じつは貴族たちも忙しかったり陰謀にまみれた政治抗争が繰り広げられていたことを改めて知り、ドロドロとした人間臭い場所でもあったんだなあと思いました。
平安遷都の日には、改めて日本の歴史目を向けてみてはいかがでしょうか。
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