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咸臨丸出航記念日とはいつ?意味や由来、イベントに咸臨丸フェスティバル

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▪はじめに

咸臨丸とは、江戸時代末期に幕府が所有していた日本初のスクリュー搭載型軍艦です。

勝海舟が艦長として乗り込み、アメリカまで航海したことで有名な船でもありますが、そのアメリカに向かって出航した日が現在も記念日として残っています。

 

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咸臨丸出航記念日とは

咸臨丸出航記念日は、毎年1月13日にあります。

この記念日は、1860年(安政7年)1月13日に日米通商航海条約批准書交換のために江戸幕府の使節団の護衛艦として幕府所有の軍艦「咸臨丸」がアメリカ・サンフランシスコに向かい品川を出航したことにちなんで制定されたたものです。

 

出航後、咸臨丸は約1ヶ月後の2月26日に無事サンフランシスコに到着しました。

この到着日は「咸臨丸の日」として制定された記念日となっています。

 

▪意味

咸臨丸出航記念日には、1860年(安政7年)1月13日に咸臨丸がアメリカに向かって品川から出航したことを記念する意味があります。

 

▪由来

咸臨丸出航記念日は、1860年(安政7年)の1月13日に咸臨丸が品川からアメリカ・サンフランシスコに向かって出航したことに由来して制定された記念日です。

 

ちなみに、咸臨丸は1月13日に品川を出航した後1度浦賀に寄り、1月19日に浦賀から再び出航したので、1月19日が正式な出航日とする説もあります。

 

▪イベント

品川から出航した咸臨丸は、出航した翌年の1861年(安政8年)5月5日に無事浦賀に帰航しました。

日本人初の太平洋横断を成し遂げた咸臨丸乗組員たちの功績を讃えるため、神奈川県横須賀市にある住友重機械工業株式会社浦賀工場内浦賀港周辺では、毎年4月の終わりごろに「咸臨丸フェスティバル」が開催されています。

 

咸臨丸フェスティバルでは、咸臨丸乗組員を讃える式典をはじめ、地元中学校の吹奏楽部や消防団音楽隊による演奏、数校の地元高校のよるダンスやバトントワリングなどの舞台発表などが行われます。

また、桶に汲んだ水を天秤棒で担ぎ、5人1組でリレーしタイムを競う「水恋乞いレース」や、たまごのつかみ取りを競う「たまごつかみ大会」、浦賀に因んだクイズ大会なども開催され、毎年多くの人が訪れています。

日時などの詳細は横須賀市HP内のイベント開催情報にてご確認ください。

横須賀市HP 

 

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咸臨丸の雑学

<初めての航海で咸臨丸はボロボロ>

咸臨丸は、オランダのフォップ・スミット造船所で作られた日本で初めての洋式スクリューを搭載した蒸気船です。

1857年(安政4年)4月に完成し、その年の8月にオランダから長崎に送られ、当初は長崎海軍伝習所の練習艦として使用されていました。

その後、長崎海軍伝習所が閉鎖し、江戸の軍艦操練所に引き継がれ、1860年(安政7年)に日米通商航海条約の批准書を交換するアメリカ使節団の船を護衛するためと、幕府海軍の航海実習を目的としアメリカへと向かうことになったのです。

 

このときの乗組員は、艦長の勝海舟をはじめ、軍艦奉行の木村摂津守、通訳の中浜万次郎(ジョン万次郎)ら96名の日本人と11名のアメリカ人でした。

乗組員のなかには、当時まだ20代の福沢諭吉もいました。

当時小さな蘭塾(オランダ語の塾)先生をしていた福沢諭吉は、横浜見物に出かけたときに自分のオランダ語がまったく通じないことにショックを受け、同時に英語の必要性に目覚めます。

そして必死で英語の勉強をしていたときに咸臨丸のアメリカ訪問の話を聞きつけ、無理やり木村摂津守の従者として乗り込ませてもらったのだそうです。

 

しかし、咸臨丸の初航海はとても過酷なものでした。

航海中の海は何日も嵐が続く大荒れで、日本人乗組員は中浜万次郎を除いた全員が船酔いで動けず、艦長の勝海舟に至っては艦長室にほぼ閉じこもったまま、ときには「俺はもう帰る!」などと癇癪を起したりして周囲を困らせたと記録に残っています。

ゆえにアメリカ・サンフランシスコまでの航海は、アドバイザーとして一緒に乗っていたアメリカ海軍のブルック大佐らアメリカ人乗組員たちによってなんとか切り抜けた形となりました。

航海中、勝海舟は艦長としての役割をほとんど果たせなかったにもかかわらず、船を降りたとたん偉そうな態度を取っていたそうで、福沢諭吉は勝海舟のことを嫌っていたのだとか。

 

そしてこの過酷な航海で、3名の日本人乗組員が病死したのだそうです。

この航海では、乗組員たちがボロボロになっただけでなく、咸臨丸も嵐でもみくちゃにされて沈没寸前とまで言われるほどにボロボロになっていました。

本来の目的である日米通商航海条約批准書の交換はワシントンで行われるため、日本からの使節団はアメリカの船でそちらへ向かいましたが、咸臨丸はワシントンで大規模な破損修理を行い、ハワイを経由して日本へと帰りました。

 

帰路では、アメリカ人の水夫を5人雇っただけでほぼ日本人乗組員だけの航海となりましたが、滞在中に得た知識や航海中の反省点やブルック大佐たちから知識を最大限に活用し、また天候にも恵まれたので無事に浦賀まで帰ることができたということです。

 

<北海道の海に今も沈んだままの咸臨丸>

アメリカまでの大航海を終えて無事帰国した咸臨丸は、その後1861年(文久元年)に起きたロシア軍艦対馬占領事件の際にロシアとの交渉に派遣された外国奉行・小栗中順を対馬まで運んだり、1862年(文久2年)の小笠原諸島調査のために出航したりと大役を担っていました。

しかし、相次ぐ長距離航海に船体は傷んでいき、蒸気機関の故障が頻繁に起こるようになったため、1866年(慶応2年)に蒸気機関部分を撤去して帆船となり、輸送艦として使用されるようになります。

 

そして、1868年(慶応4年)に始まった戊辰戦争の際、新政府軍からの旧幕府軍艦隊の引き渡し要求に反抗した榎本式揚らによる仙台への逃亡途中、銚子沖で座礁し破損した咸臨丸は清水港で修理を行います。

しかしそのときに、新政府軍の艦隊がやってきて戦いなり、咸臨丸に乗っていた旧幕府軍は全滅しました。

 

戊辰戦争後、明治政府の船となった咸臨丸は、1871年に北海道の開拓団であった仙台藩の家臣ら401名を輸送中に北海道木古内町のサラキ岬沖で座礁します。

現地の人の必死の救助により乗員401名は全員無事でしたが、咸臨丸は数日後に沈没してしまい、今もサラキ岬沖の海底で眠っているのです。

 

▪まとめ

幕末から明治初期までという激動の時代に活躍した咸臨丸は、現代でも人気の高い戦艦の1つです。

サラキ岬沖では、乗っていた人たち全員が助かったことを確認してから力尽きたような最後がまた、悲しくも美しく日本人の琴線に触れるのもがあるのではないでしょうか。

そんな咸臨丸に関するイベントも横須賀市だけでなく日本各地で行われているので、ぜひ足を運んでみてください。

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