「3月24日 壇ノ浦の戦いの日」
■はじめに
壇ノ浦の戦いでは負けを覚悟した平家が幼い天皇と三種の神器を道連れにしてしまいます。
まさに平家が滅んでしまえば、あとは野となれ山となれといった「おごる平家」そのもので、潔さとか滅びの美学のカケラも見ることができません。
筆者がどうしても平家を好きになれない理由です。
目 次
壇ノ浦の戦いの日とは
源平最後の合戦「壇ノ浦の戦い」があったのは1185(寿永4)年3月24日。
この戦いに思いを馳せて、3月24日は「壇ノ浦の戦いの日」という記念日ですが、たぶん自然発生的に言われ出したもので、制定者がいるとは思えません。
■壇ノ浦の戦いの日の意味と由来
都を追われ屋島での戦いに敗れた平家軍は、最後の拠点である下関の「彦島」沖の壇ノ浦で源氏軍の追撃を待ち受けましたが、勝敗はすでに決していたはずです。
軍勢は源氏側が圧倒、九州もすでに源氏に制圧されていたため、平家が逃げる場所はなく、ここで決戦に挑まざるを得ませんでした。
たとえこの局地戦に勝っても、大勢を挽回する力はなかったように思います。
■壇ノ浦の戦いの日のイベント
「壇ノ浦の戦いの日」にかかわるイベントは、源平の合戦よりも8歳の幼さで海に沈んだ安徳天皇をしのぶことに焦点が当てられ、毎年5月に開催される「しものせき海峡まつり」の中で、「先帝祭」という神事が実施されています。
「先帝祭」は身分の高い遊女である上臈(じょうろう)や稚児、警固たちが豪華絢爛な行列で安徳天皇を祀る赤間神社まで練り歩くもので、花魁道中といったほうがイメージできそうですね。
遊女と神社の組み合わせは奇異ですが、壇ノ浦で生き残った女官たちは遊女として生きるしかありませんでした。
そんな彼女たちですが、安徳天皇の命日には必ず参拝して冥福を祈ったことから生まれた行事です。
不思議なことに、壇ノ浦とは遠く離れた栃木県・湯西川温泉でも「平家大祭」が開催されて、その中で同じような「上臈参拝道中」が実施されています。
これは壇ノ浦で敗れた平家の落人が湯西川に隠れ棲んだという伝説から生まれた行事です。
壇ノ浦の戦いの日の雑学
▽善と悪はメビウスの輪
「平家にあらずんば人にあらず」という言葉が強烈なためか、平家と源氏を比べると、どうしても平家が悪者に見られがちで、平家を倒して鎌倉幕府開設の功労者・源頼朝も、義経を死に追いやったことで悪く思われがちです。
また執権政治を確立した北条義時も承久の乱の結果、天皇を流罪にしたことで悪党と呼ばれ、鎌倉幕府を倒した後に後醍醐天皇と対立した楠木正成も、ヒーローから一転して大罪人とされました。
このように一時は英雄であっても、その後によっては悪人呼ばわりされ、また時代が流れて価値観が変われば、ふたたび「悪い人」から「善い人」に汚名返上することになります。
古文書の発見によって悪人が善人、あるいはその逆になることはまずなくて、たいていの場合は視点を変えた小説や映画などによるもので、「燃えよ剣」で武士道に殉じた新選組がその代表と言えるでしょう。
筆者が子どものころに見たチャンバラ映画「鞍馬天狗」では近藤勇や土方歳三はとんでもない悪人扱いでした。
同様に主殺しの明智光秀もNHKの大河ドラマで善い人に転向し、2022年も北条義時が主人公でイメージは一気に好転しそうです。
いつの間にか善人と悪人が入れ替わる、善と悪はメビウスの輪のようです。
いつか、吉良上野介が善い人だったと言われる日が来るのでしょうか。
■最後に
壇ノ浦の戦いで勝敗を分けたのは、潮の流れが変わったことと、義経の掟破りの戦法だったとも言われています。
当時、海戦では船を漕ぐ水夫は狙わないという暗黙のルールがありました。
西部劇で馬を狙わないのと同じです。
ところが義経は勝利のための最善の方法しか眼中になく、矢で水夫を狙うことを指示して平家軍の機動性をそぎ、劣勢だった戦いを一変させました。
それでは悲劇のヒーロー義経の印象もだいぶ違ったものになりますね。
2022年のNHK大河でも、軍使の首をはねるサイコパス義経として描かれていますが、それでも義経が悪い人側に落ちることはないでしょうね。
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