▪はじめに
現在、漫画は日本の文化の1つとして世界に誇るものとなっています。
その礎となった1人が「漫画の神様」とも呼ばれている手塚治虫です。
いまや世界中の人が知っていて、いまだに人気の高い手塚治虫と漫画に関する記念日は、彼の命日である2月9日にあります。
目 次
漫画の日とは
漫画の日は、毎年2月9日にあります。
この記念日は、漫画の神様と呼ばれる手塚治虫の命日がこの日であることに因んで、漫画本専門の古書店「まんだらけ」が制定しました。
まんだらけとは、1980年(昭和55年)に漫画家・古川益三氏が開店した漫画本専門の古書店で、オタク文化の先駆けとなった書店です。
現在では、東京や大阪・愛知・福岡・北海道などに合わせて11店舗を構え、漫画だけでなくフィギュアやアニメ関連グッズなどサブカルチャー分野のグッズを幅広く販売しています。
▪意味
漫画の日には、手塚治虫の命日に個人を偲び、手塚治虫の作品をより多くの人に知ってもらうという目的があります。
▪由来
漫画の日が2月9日にあるのは、日本を代表する漫画家・手塚治虫が1989年(平成元年)2月9日に亡くなったことに由来しています。
▪イベント
漫画の日を制定した「まんだらけ」では、毎年2月9日前後にまんだらけスタッフがコスプレをしたり、手塚治虫の作品をピックアップしたりしています。
また、手塚治虫作品が掲載された雑誌や単行本の初版本などのお宝が販売されることもあるので、気になる方はチェックしてみてください。
まんだらけHP https://www.mandarake.co.jp/index2.html
漫画の雑学
<手塚治虫はなぜ「漫画の神様」と呼ばれているの?>
手塚治虫は、日本だけでなく世界でも最も有名といわれている漫画家です。
代表作に「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」「ブラックジャック」「リボンの騎士」「火の鳥」などがあり、現在も多くの人たちを魅了しています。
ではなぜ手塚治虫は「漫画の神様」と呼ばれているのでしょうか。
それは、漫画の中で数々の「初めて」を生み出したからです。
手塚治虫が子供の頃にも漫画はありました。
しかしこの時代の漫画は、現在の4コマ漫画のような感じで1ページに横長の同じ大きさのコマが縦に4つ並んでいて、上から順に読み進めていくスタイルでした。
しかし、手塚治虫は1ページの中に大小さまざまな形のコマを取り入れ、右から左へ読み進めていくスタイルを生み出したのです。
この手法によって、まるで映画を観ているような迫力が生まれ、漫画の表現の幅が圧倒的に増えたのです。
また、漫画の中の「シーン」や「ヒラヒラ」「フワッ」などの擬音を作り漫画に初めて取り入れたのも手塚治虫です。
これらの擬音は現在では当たり前に漫画の中で使われているだけでなく、日常生活でも普通に使われるようになりました。
手塚治虫がこの擬音という手法を生み出さなければ、ジョジョの奇妙な冒険などに見られる独特な擬音も誕生しなかったかもしれませんね。
そして、手塚治虫は現在あるほとんどのジャンルの漫画の先駆けとなる作品を生み出した漫画家でした。
手塚治虫は、60歳で亡くなるまで常に第一線で活躍しており、生涯に描いた原稿は約15万枚にも及ぶとされています。
その中で手塚治虫は、ロボット漫画・動物漫画・冒険漫画・伝奇漫画・宗教漫画・探偵漫画・医療漫画・少女漫画・性教育漫画・歴史漫画・青年漫画などあらゆるジャンルの先駆けとなる漫画を描きました。
これらの作品は漫画界に多大な影響を与え、手塚治虫に憧れて漫画家になった人も沢山います。
因みに、手塚治虫はスポーツが苦手でスポーツ漫画だけは他の漫画家にかなわないからと描かなかったそうです。
このように、多くの新しい試みを漫画に取り入れ素晴らしい作品を描き続けたため、手塚治虫は生前から「漫画の神様」と呼ばれていました。
彼の残した作品は、現在でも古臭く感じることなく面白いものばかりで、その点も「漫画の神様」と呼ばれる理由の1つとされています。
しかし、天才的な漫画家であった手塚治虫もずっと順風満帆だったわけではありません。19歳でデビューして以降、睡眠時間を削ってまで多くの漫画を描き続け、憧れていたウォルト・ディズニーのようにアニメの制作まで行いました。
しかし、次々と新しい漫画家が誕生していき、自分の作風に疑問を持ち始め、漫画が描けなくなるほどのスランプに陥ったこともあります。
それでも、その苦しみから這い上がり、病気になっても闘病しながら亡くなるまで漫画を描き続けた手塚治虫を、弟子の1人は「神様ではなく人間だから、命を削ってでも描き続けたのでしょうね…」と語ったそうです。
<手塚治虫は医師免許を持っていた>
日本を代表する漫画家である手塚治虫は、じつは医師免許も持っていました。
手塚治虫は、映画好きの父親と漫画好きの母親の影響を受け、映画や漫画が大好きな子供でした。
絵も上手く小学校の頃から漫画を描き始めた手塚治虫は、5歳の頃に兵庫県宝塚市に引っ越したものの母親が東京出身で関西弁を全く話せずいじめられていたものの、面白い漫画を描き続けたことでいじめられなくなっていったそうです。
しかし、手塚治虫が中学校に上がるころ第二次世界大戦が始まり、漫画を描くと先生に怒られるようになります。
そのような状況の中でも手塚治虫は漫画を描き続けました。
成績も良かった手塚治虫は、中学卒業後に大阪帝大の医学専門部へと進みます
幼いころから体の弱かった手塚治虫は、医師になることを目指し、当時軍医を早く育てる為に旧制中学卒業後に入れる医学部を受験して見事合格したのです。
しかし、医学部に進学した後も漫画は描き続けており、なんと在学中に漫画家デビューしてしまいます。
手塚治虫は、漫画家として生きていくか医師として生きていくか相当悩んだそうですが、母に相談して「好きな方をやりなさい」と言われ、漫画家の道を選んだそうです。
また、恩師からも「このままでは君は患者を殺してしまうだろうから、漫画家になれ」ともいわれたのだとか。
本人も「患者の顔を見るとどうしてもカルテに似顔絵を描いてしまう」と後に語るほどだったので、漫画家になって正解だったのかもしれませんね。
しかし、手塚治虫は医学部で学んだ知識を無駄にはせず、後に「ブラックジャック」という本格医療漫画を生み出すこととなるのです。
▪まとめ
手塚治虫は、子供のころから漫画が大好きで漫画に全てを捧げた人でした。
彼が生み出した漫画は、多くの人たちを魅了し大きな影響を今でも与え続けています。
私も子供のころから手塚作品が大好きで、「リボンの騎士」や「ブラックジャック」、「火の鳥」は何度も読み返し、人生観にも影響を与えられた作品と言えます。
みなさんも漫画の日であり手塚治虫の命日でもある2月9日には、手塚治虫の作品を読んでみてはいかがでしょうか。
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