「3月10日 東京都平和の日」
■はじめに
ベトナム戦争のさなか、日本で「戦争を知らない子供たち」というフォークソングが大ヒットし、反戦歌の代表と言われました。
若かった筆者も盛んに口ずさんだものでしたが、ただの流行歌としての意識しか持たず、ベトナム反戦デモを遠目に眺めているだけで、今更ながら当時の自分の無思想ぶりに恥じ入るばかりです。
目 次
東京都平和の日とは
東京都は1990(平成2)年7月に「東京都平和の日条例」を制定し、東京大空襲の犠牲者を追悼するとともに、平和の意義を確認し、平和意識を高めようと、大空襲のあった3月10日を「東京都平和の日」と定めています。
■東京都平和の日の意味と由来
B29による日本本土爆撃は東京大空襲の前年6月、中国の成都基地から九州の八幡製鉄所を狙ったものでしたが、B29の航続距離の制限で北九州への爆撃にとどまっていました。
しかし、アメリカ軍がマリアナ諸島を攻略し、航空基地を建設したことによって日本全土への爆撃が可能になり、東京は数度の爆撃を受けた後、1945(昭和20)年3月10日、一晩に10万人もの死者を数えた東京大空襲の夜を迎えます。
本土空爆はその後も日本全土に広がり、終戦当日の8月15日まで毎日のように続き、被災都市は200以上、被災人口は970万人、30万人以上が死亡したと言われます。
■東京都平和の日のイベント
東京都は毎年のこの日、都庁内で記念式典を開催するとともに、都内各所に設けた「東京空襲資料展」で惨禍を語り継いでいます。
記念式典は犠牲者への黙とうで始まり、都知事、都議会議長に続いて、在日外交団代表、被災者代表の来賓が挨拶し、「追悼と平和への祈り」と題したコンサートなど、厳かなプログラムで進行します。
東京都平和の日の雑学
▽テルミット焼夷弾
焼夷弾はゲル状にしたナフサ(粗製ガソリン)やパーム油を焼夷剤としており、東京に投下されたものの多くはアルミニウムと酸化鉄を混合し、燃焼温度が3000度にも達するテルミット焼夷弾と呼ばれるもので、これは木造家屋の多い日本を狙って開発されました。
B29から投下されたテルミット弾は、中に多くの焼夷弾が仕込まれ、空中で分解することで多くの焼夷弾が飛び出すクラスター爆弾で、落下姿勢安定のために尾部にリボンがつけられ、それに火がつくことから焼夷弾が火の雨に見えたと伝えられています。
焼夷弾は一瞬で家屋を全焼させる威力のあることがわかっていましたが、それでも日本政府は「大型焼夷弾でも訓練ある隣組防護団員と常備の砂、防火用水で立派に消し止められる」として、国民に「逃げずに消化せよ」と厳命していました。
現在、焼夷弾やクラスター爆弾は特定通常兵器使用禁止制限条約やオスロ宣言で使用の制限、廃棄などが取り決められていますが、これは平時の取り決めであって、民族や国家の存亡をかけた戦時で遵守されるという保証はありませんね。
▽機銃掃射から焼夷弾無差別攻撃へ
東京大空襲以前の東京爆撃は空母から発進したB25による機銃掃射の奇襲攻撃でしたが、1944年11月からはB29による航空機工場への戦略爆撃、次いで焼夷弾による市街地への無差別爆撃へと変化しました。
焼夷弾の効果を見極めた米軍は、市街地を軒並み焼き払い、戦意を喪失させるべく「ミーティングハウス2号作戦」を立案、強風予報が出ていて、延焼効果が高い3月10日午前0時すぎの実施を決定し、325機のB29によって38万1300発、1665トンの焼夷弾が人口の密集する芝区(現港区)をはじめとする23区に投下されました。
この東京大空襲を境に焼夷弾爆撃は東京の都区部と工場地帯全域に及び、コンクリートの建物が多い地区のために貫通力の高い焼夷弾も開発されました。
また中央線の列車を狙った機銃掃射や、伊豆諸島・小笠原への爆撃など、とうてい意味があるとは思えない攻撃も続きました。
■最後に
戦争の惨禍を体験し、語り継ぐ人の多くが鬼籍に入ったためか、戦争に無関心な若者が増えているそうです。
戦前・戦中生まれの国会議員もごくわずかとなった今、憲法9条に危機が迫っています。
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