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長崎二十六聖人殉教の日とはいつ?意味や由来、イベントに日本二十六聖人殉教記念ミサ

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▪はじめに

日本には、キリスト教徒が弾圧された歴史があります。

その最初の犠牲者となったのが、後に長崎(日本)二十六聖人と呼ばれるようになった人たちです。

今回は、その長崎二十六聖人に関する記念日と彼らにまつわる歴史などについて紹介していきます。

 

長崎二十六聖人殉教の日とは

長崎二十六聖人殉教の日は、毎年2月5日にあります。

長崎二十六聖人殉教の日は、1597年(慶長元年)に豊臣秀吉の命によって長崎の西坂で6人の宣教師と20人のキリスト教信者が磔(はりつけ)の刑で処刑されたことにより制定されたカトリック教会における祝日です。

 

▪意味

長崎二十六聖人殉教の日は、1597年(慶長元年)2月5日に豊臣秀吉の命によって長崎の西坂で26人のキリスト教者が日本で初めて処刑されたことを偲び、祈りを捧げるために制定されました。

 

▪由来

長崎二十六聖人殉教の日が2月5日なのは、1597年(慶長元年)の2月5日に刑が執行されたことが由来となっています。

 

▪イベント

長崎県長崎市では、毎年2月の第1日曜日に長崎市西坂公園にて「日本二十六聖人殉教記念ミサ」が行われています。

このミサは、1597年2月5日に豊臣秀吉の命で西坂の丘で十字架に磔にされ亡くなったキリスト教の6人の宣教師と20人の信者たちに祈りを捧げるもので、毎年多くの人が参列しています。

カトリック長崎大司教公式HP

 

長崎二十六聖人殉教の雑学

<長崎(日本)二十六聖人の殉教とは>

日本で最初に行われたキリスト教弾圧による処刑とされる長崎二十六聖人の殉教とはどのような出来事だったのでしょうか。

 

天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、キリスト教に友好だった織田信長と違い天下統一前からキリスト教を禁止していました。

キリスト教を禁止した理由は後から詳しく紹介しますが、弾圧のきっかけとなったのは1596年(文禄5年・慶長元年)10月に土佐(高知県)裏戸に漂着したスペイン船サン・フェリペ号の乗組員が積荷を没収された上に京都に幽閉されたことに怒り、スペインは宣教師を世界中に派遣し布教とともに征服を行っていると発言したことであるといわれています。

 

これを聞いた豊臣秀吉は1596年12月8日に再びキリスト教禁止令を出しました。

日本に最初に布教にやってきたイエズス会は活動を自粛していましたが、イエズス会より後にやってきたフランシスコ会は布教活動を活発に行ったため秀吉に挑発的と取られてしまいます。

秀吉は石田三成に京都にいるキリスト教宣教師と信者を全員捉えて処刑することを命じました。

そうして捕らわれたのが6人の宣教師と18人の日本人教徒だったのです。

 

秀吉は彼らの両耳と鼻をそぎ取ったのち、長崎で磔(はりつけ)の刑にするよう光成に命じましたが、光成はそぎ落とすのは左耳の一部のみとしました。

捕らわれた24人は、1月3日に京都の一条戻り橋で左の耳たぶをそぎ落とされた後、京都・大阪・堺で市中引き回しとされ、1月10日に長崎までに向けて出発し、約800㎞の道のりを徒歩で連行されました。

この道中、信者の世話をするために随行したペトロ助四郎と一行を追って合流したフランシスコ吉もいつの間にか捕縛され受刑者として処刑されることになってしまいます。

一カ月近く歩いて長崎に到着した一行は、1597年2月5日に彼らの希望でイエスが処刑された場所に似ているとして西坂の麦畑で磔の刑が執行されました。

 

処刑の総責任者であった寺沢半三郎は、最年少のルドビコ茨木に面会したときに、キリスト教を棄てれば処刑は免れ養子として迎え入れると伝えましたが、ルドビコ茨木はそれを断り、13歳だった長崎のアントニオは両親に改宗するよう懇願されますが逆に入信することをすすめたそうです。

4000人以上が見守る中刑は執行され、この2人の少年は讃美歌を歌い、パウロ三木は最後の説教をしたと伝えられています。

こうして日本で最初の殉教者となった26人は、1627年カトリック教会により列福(カトリック教会において殉教などで亡くなった後にその徳と聖性を認められた者に与えられる福者(聖人に次ぐ地位)に加えられる手続き)を受け、その後1862年に日本人関係者で初めて聖人として加えられたのです。

 

<豊臣秀吉はなぜキリスト教を禁止したの?>

豊臣秀吉はなぜここまで厳しくキリスト教を禁止したのでしょうか?

秀吉も元々は織田信長同様、キリスト教に友好的でした。

しかし、1586年から1587年にかけて行った九州征伐の後に、長崎の大名・大村純忠が狂信的な信者となりついには長崎をイエズス会領として寄進していることを知ります。

また、ポルトガル人が日本人を奴隷として連れ去っているおり、しかも九州のキリシタン大名と宣教師たちが日本人の人身売買に関わっているという報告も受けていました。

 

秀吉は布教責任者であったコエリョ日本支部副管区長と会談し、「なぜポルトガル人が多くの日本人を買い、本国に連れていくのか」と問うと、コエリョは「日本人が売るから買うだけ。司祭職の人間はこれを悲しみ防止するために尽力している。売られたくなければあなたが日本人の売買禁止令を出して取り締まればいい」と答えたそうです。

日本人が奴隷として連れ去られることを阻止するため、1587年(天正15年)に「バテレン(神父)追放令」を出しました。

 

そのほかにも、キリスト教は農民や商人だけでなく大名にも多くの信者がおり、これがさらに拡大して一向一揆のような反乱を起こすと負けてしまう恐れがあったためや、キリスト教徒が神道や仏教を迫害したためといった理由や、ポルトガルとスペインの船を博多にも寄港させるよう頼んだのに断られたからとか、秀吉が有馬の国で美女を提供するよう命令したところ有馬の女性のほとんどがキリシタンで命令を拒否したことに腹を立てたからなどといった理由が挙げられています。

 

しかし、バテレン追放令を出したときもキリスト教自体への弾圧はなく、外国との貿易も続けていたので、その後もキリスト教信者は増えていきました。

キリスト教自体には寛容だった秀吉でしたが、その後のサン・フェリペ号事件がきっかけとなり、キリスト教に対する態度が厳しくなったとされています。

 

▪まとめ

長崎(日本)二十六聖人殉教はその後も続くキリシタンの弾圧の始まりとなりました。

豊臣の世から徳川の世に移り変わるとキリシタンへの弾圧は更に激しくなり、多くの殉教者が出てしまいます。

弾圧されたキリシタンたちは長崎や天草地方などで密かに信仰を継続しており、潜伏キリシタン特有の文化は2018年(平成30年)に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界文化遺産に登録されました。

外国から日本と国民を守るためのキリスト教禁止令だったのかもしれませんが、日本の悲しい歴史の1ページでもあります。

長崎二十六聖人殉教の日は、カトリック教会における祝日ですが、日本人である私たちも歴史的背景と共に知っておくべき大切な記念日だと思います。

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