▪はじめに
エベレストは、いわずと知れた世界一高い山です。
テレビ番組でも時折チャレンジする様子が放送されていて、その厳しさを私たちも目にすることがあります。
今回は、そんな厳しいエベレスト登頂を世界で初めて成功させた人たちや登頂成功に関する記念日などについて紹介していきましょう。
目 次
エベレスト登頂記念日とは
エベレスト登頂記念日は、毎年5月29日にあります。
この記念日は、ニュージーランド出身でイギリスの登山家エドモンド・ヒラリーとネパール出身のシェルパ(登山支援をする人たちの総称)のテンジン・ノルゲイが、1953年(昭和28年)のこの日に世界で初めてエベレストの登頂に成功したことに因んで制定されたものです。
▪意味
エベレスト登頂記念日には、1953年(昭和28年)の5月29日にエドモンド・ヒラリー氏とテンジン・ノルゲイ氏が世界初のエベレスト登頂を成功させたことを記念するという意味があります。
▪由来
エベレスト登頂記念日は、1953年(昭和28年)5月29日にエドモンド・ヒラリー氏とテンジン・ノルゲイ氏が世界で初めてエベレストの登頂に成功したことに由来して制定された記念日です。
▪イベント
エベレスト登頂記念日に関するイベントは、残念ながら見つけることができませんでした。
エベレストの雑学
<エベレスト登頂はイギリスの国家プロジェクトだった>
エベレスト登頂のプロジェクトは約100年前から始まったとされています。
エベレスト登頂プロジェクトは1920年に設立されたイギリスのエベレスト委員会(王立地理学会と英国山岳会が共同で設立した組織)による活動でした。
当時エベレストを制覇するということは国の力を示すことにも繋がっており、イギリスは国の権威をかけてこのプロジェクトを進めていました。
エベレスト委員会(1947年以降ヒマラヤ委員会)は、プロジェクトが開始された1921年から1953年までに7回に渡って遠征隊を送っています。
登頂のための周辺調査とエベレストとその付属峰の間の峠までのルート確認を行った第一次遠征隊と気候調査を行った第五次遠征隊を除いた、第二次から第七次までの遠征隊は、天候不良や雪崩、酸素不足などによって登頂失敗に終わっています。
第二次世界大戦中はプロジェクトが中止となっており、さらに戦後、チベットが中国統治下になったことでこれまで使っていたチベット側からのアタックは不可能となりました。しかし、1949年にネパールが鎖国を解き、ネパール側からのアタックが可能となります。
このことにより、イギリスだけでなく世界各国がエベレスト登頂を目指すようになりました。
しかし、どの国の登山隊も登頂を成功させることはありませんでした。
イギリスは、酸素装備の改良や隊員のクライミングの技術の向上など入念な準備をしたうえでこれが最後という覚悟で1953年に再び遠征隊を送りました。
この遠征隊に加わっていたのが、エドモンド・ヒラリー氏とテンジン・ノルゲイ氏でした。
ヒラリー氏は、6000m以上の山を11座制したうえニュージーランドの登山隊としてのエベレスト登山の経験があり、ノルゲイ氏も第三次遠征隊やスイスの登山隊とのエベレスト登山など6回のエベレスト登山経験があったため、イギリスの遠征隊に声を掛けられ参加したそうです。
遠征隊は順調に前進していき、頂上アタックチームを2チーム送り出すことに成功しました。
5月26日に最初のチームがアタックしましたが、酸素不足で登頂することができませんでした。
そして、5月29日早朝にエドモンド・ヒラリー氏とテンジン・ノルゲイ氏の第2チームがアタックし、午前11時30分、ついに世界初の登頂を成功させたのです。
後に2人はどちらが先に頂上に足を付けたのかと質問されますが、「2人同時だった」と答えています。
下山後、ヒラリー氏とノルゲイ氏を含んだ37名の遠征隊は、この功績を讃えられイギリス女王エリザベス2世から騎士叙勲を受けました。
しかし実は、ヒラリー氏とノルゲイ氏よりも前に世界初の登頂を成功させたかもしれない登山家がいます。
その登山家とは、第三次遠征隊に参加していた隊員のジョージ・マロリー氏とアンドリュー・アーヴィン氏です。
マロリー氏とアーヴィン氏は1924年の第三次遠征隊の隊員でした。
第三次遠征隊は、山頂を目指しましたが1回目のアタックでは失敗してします。
2回目のアタックのときに隊員のマロリー氏とアーヴィン氏が頂上を目指したものの、天候が悪化し2人は行方不明となってしまいました。
マロリーの遺体は1999年に発見されましたが、登頂成功の暁に山頂に置くために持っていた妻の写真が遺品から発見されなかったことから、登頂には成功したのではないかと言われていますが、真実は謎のままです。
ちなみに、マロリー氏は「なぜ、あなたはエベレストに登りたかったのか?」という質問に対し「そこに(エベレストが)あるから(Because it’s there)」(日本語で「そこに山があるから」と誤訳された)と答えたことで有名な人物です。
<エベレスト最難関のデスゾーンとは>
人間がエベレストの頂上まで登ることが難しいとされるのは、「デスゾーン」という領域があるからです。
「デスゾーン」とは、主に標高8000m以上の領域のことを指していて、そこに居るだけで死に至る場所であることからこの名前が付けられています。
ではなぜこの領域で人間は死んでしまうのでしょうか。
これは、空気が薄いうえにとても寒いからです。
酸素は標高が高くなるにつれて薄くなっていき、8000mを超えると地上の3分の1の濃度になります。
これは、人間が呼吸で必要な酸素を体内に取り込むよりも早く体内の酸素がなくなってしまう酸素濃度で、酸素ボンベ無しではとうてい人間は生きていけない領域だということです。
それだけではなく、酸素が薄いと体の中に酸素を取り込もうとして呼吸数が増え、それだけでも体力が奪われてしまい、命の危険に晒されてしまいます。
また、気温も標高が高くなるにつれ低下していきます。
エベレストの気温は、登山に最適とされる5月でも平均-27℃で、さらにジェット気流という風速50~100mの強風が吹き荒れると気温はもっと下がっていきます。
人間は気温の低い場所に長時間滞在すると、血液が生命維持に必要な臓器を守るためそちらに血液が集中し、手足の指などの末端には充分な血液が回らなくなります。
血液が流れなくなった指先から凍傷になっていき、滞在時間が長くなると凍傷の範囲が広がってついには凍死してしまうのです。
エベレストにおける「デスゾーン」は、標高7900mから山頂までの間のことを指して、実際に毎年何人もの死者が出ています。
近年、酸素ボンベや登山ウェアの改良が進んだことや、安全なルートの確保やエベレスト登山のノウハウが確立されたことなどにより登頂成功者も増えてきています。
2019年には11人の死者が出ているのも事実です。
デスゾーンは、技術が進んだ現在でも人間にとって厳しい領域なのです。
▪まとめ
エベレストの登頂に初めて成功したのは、今から約70年前のことです。
その後もエベレスト登頂に挑戦する人は後を絶たず、年々登山者は増えています。
登頂成功者も増えてその中には日本人も何人もいますが、それはエドモンド・ヒラリー氏とテンジン・ノルゲイ氏が初めて登頂可能であることを証明し、過去に多くの犠牲者を出しながらも攻略するための経験を積み上げていったからにほかならないのです。
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