▪はじめに
松尾芭蕉とは江戸時代前期の俳人で、多くの俳句や紀行文「奥の細道」などを書き残した、日本だけでなく世界でも有名な偉人です。
芭蕉は、晩年旅の途中で病気になり、51歳で亡くなったとされています。
そこで今回は、松尾芭蕉の命日である芭蕉忌や松尾芭蕉に関する雑学などについて紹介していきましょう。
目 次
芭蕉忌とは
芭蕉忌は江戸前期から中期にかけて活躍した俳人、松尾芭蕉の命日で、毎年10月12日にあります。
松尾芭蕉は、1694年(元禄7年)陰暦の10月12日に亡くなったといわれています。
因みに芭蕉忌は、「時雨忌(しぐれき)」「翁忌(おきなき)」「桃青忌(とうせいき)」「芭蕉の日」「芭蕉会」とも呼ばれ、冬の季語となっています。
▪意味
芭蕉忌とは、松尾芭蕉の命日のことです。
芭蕉は、旅の途中で病気になり、51歳であった1694年(元禄7年)陰暦の10月12日に大阪で亡くなりました。
亡骸は、芭蕉の遺言により滋賀県大津市の義仲寺(ぎちゅうじ)に葬られています。
▪由来
芭蕉忌が10月12日のあるのは、芭蕉が1694年(元禄7年)陰暦の10月12日に亡くなったことに由来しています。
▪イベント
松尾芭蕉が生まれたとされる三重県伊賀市には、芭蕉の残した偉業やゆかりの地などの保存や功績を広めることを目的とした公益法人「芭蕉翁顕彰会」という団体があります。
この芭蕉翁顕彰会では、毎年芭蕉忌に「芭蕉祭」を開催しています。
芭蕉祭では、式典をはじめ、全国俳句大会や芭蕉記念館の特別展など芭蕉を偲び、功績を称えるためのイベントが行われます。
伊賀市の秋の風物詩にもなっており、地元を人たちをはじめ、全国の芭蕉ファンや俳句好きの人が参加しているので、興味のある方はぜひ足を運んでみてください。
松尾芭蕉に関する雑学
<松尾芭蕉の生涯とは>
松尾芭蕉は、日本で最も有名な俳人です。
みなさんも、「古池や蛙(かわず)飛び込む水の音」や「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」などの俳句や紀行文「奥の細道」は、みなさんも学校の授業で習ったりしてご存じなのではないでしょうか。
松尾芭蕉は、伊賀国(現在の三重県伊賀市)の士族(平氏の末裔とされ、苗字を名乗ることと帯刀を許されていたが農民だった)の家に生まれ、18歳で伊賀国上野の侍大将・藤堂良清とその息子の藤堂良忠に仕え、2歳年上の良忠と共に京都の北村季吟(きたむらきぎん)に師事し俳人となりました。
しかし、23歳の時に良忠が25歳で亡くなってしまったため、以後6年間京都の禅寺で修行します。
29歳の時、処女句集「貝おほい」を伊賀市の上野天神宮奉納し、31歳の時に師匠の北村季吟から卒業の意味を持つ俳諧作法書「俳諧埋木」が伝授され、これを機に芭蕉は江戸に移り住みました。
この頃の芭蕉は「桃青(とうせい)」という俳号を使って句を詠みますが、生活は苦しかったので、水道工事に携わっていたようです。
34歳には俳諧の宗匠(先生)にもなり、江戸や京都の俳壇たちと交流を持ちながら、多くの俳句を発表し、俳諧師としての名声は高まっていきました。
しかし、芭蕉は37歳の冬に突然隅田川沿いの深川村の庵に隠遁してしまいます。
この庵に弟子が芭蕉の株を植えたことからこの庵は「芭蕉庵」と呼ばれ、この時に俳号を「芭蕉」と変えました。
その後、芭蕉は隠遁し禅を学び世間と距離を置くことで独自の句を作り出そうとしました。
41歳の時に故郷の母が亡くなったという知らせが届き、翌年に東海道を通って伊賀に帰り、母の墓参りをします。
その後、大和・吉野・山城・美濃・尾張・甲斐を周り、再び伊賀に戻って年を越した後、木曽・甲斐を経由して江戸に帰り、この旅の工程を記した紀行文「野ざらし紀行」を、45歳の時に弟子の越智悦人(おちえつじん)とともに美濃から木曽路を通って姥捨山で月見をし、善光寺を詣でてから碓氷峠を通って江戸に帰る様子を描いた「更科紀行」を、46歳の時に弟子の河西曽良(かさいそら)とともに江戸から奥州・出羽・北陸道を巡って美濃の大垣まで行った様子を描いた「奥の細道」を書きました。
これらの旅は、芭蕉が独自の句を生み出すためだけでなく、残り少ない人生でやりたいことをやってしまいたいという思いから、尊敬する歌人たちや好きな和歌や俳句にゆかりのある土地を巡る、現在で言う所の聖地巡礼的な意味合いもあったといわれています。
「奥の細道」の旅を終えた後、芭蕉は2年間ほど近畿に各地に滞在してから江戸に戻り、2年半ほど過ごしました。
その後、1694年(元禄7年)の9月に伊賀に帰郷したあと、伊賀から奈良を経由して大阪に向かいますが、この旅の途中で病気になり、10月12日に大阪の南御堂前の花屋の座敷で亡くなります。
享年51歳でした。
<芭蕉はアルバイトをしながら旅をしていた?>
松尾芭蕉は、「奥の細道」の旅を約150日間かけて行ったとされています。
その間にかかった旅費は、同行した弟子の河西曽良が書いた「曽良の日記」から約100万円ほどだったと考えられています。
「奥の細道」の中ではこの旅は貧乏旅であったように描かれており、芭蕉は旅の途中で俳句の添削や俳句の臨時講師などのアルバイトをして旅費を稼いでいたといわれています。
しかし、実際は曽良があらかじめ旅先の有力者たちに連絡をしておいたため、芭蕉は各地で歓迎されたので費用は節約できており、アルバイト代もあったので作品のイメージほど貧乏な旅ではなかったようです。
▪まとめ
松尾芭蕉は、生涯で独自の俳句を作り出し、幾人もの優秀な弟子も持っていました。
そのため、芭蕉の死後も全国各地で芭蕉の排風「芭風」の俳人が全国各地で活躍し、芭蕉の功績も現在まで語り継がれてきました。
芭蕉の命日である芭蕉忌には、みなさんも芭蕉の作品に触れたり俳句を作ったりして過ごしてみてはいかがでしょうか。
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