▪はじめに
西陣織とは、京都の西陣と呼ばれるエリア(京都市上京区と北区の一部)で作られている先染め(染められた糸を使って模様を織り出す)の織物です。
繊細で優美な西陣織は日本を代表する織物の1つで、その美しさは海外でも高く評価されています。
そこで今回は、豪華で美しい西陣織に関する記念日や特徴などについて紹介していきましょう。
目 次
西陣の日とは
西陣の日は、毎年11月11日にあります。
この記念日は、京都府の西陣織工業組合など西陣織関係の13団体で組織された「西陣の日」事業協議会によって制定されました。
▪意味
西陣の日には、より多くの人に西陣織の伝統の技と美を知ってもらうとともに、産地に活気を取り戻し、将来への持続可能な産地づくりと、地域経済の底上げにも寄与するという目的があります。
▪由来
西陣の日が11月11日なのは、室町時代に京都を中心に11年もの長い間起こった内乱「応仁の乱」が文明9年11月11日(新暦1477年12月16日)に治まったことに由来しています。
応仁の乱が終わったことで、戦火を逃れて日本各地に散らばっていた織手たちが京都に戻り、西軍の本陣があった辺りを拠点とし活動を再開したことからここで作られる織物は「西陣織」と呼ばれるようになりました。
▪イベント
西陣織工業組合は、毎年「西陣織大会」を京都市内にある西陣織会館にて開催しています。
このイベントでは、西陣織の組合員が制作した作品の展示やおよそ50年前に復元された幻の織機「空引機」の実演、お茶席(有料)、職人による西陣織関連工程(織や染など)の実演などが行われます。
西陣織工業組合HP https://nishijin.or.jp/
西陣織の雑学
<西陣織の歴史>
西陣織の歴史は古く、その基礎は、5~6世紀ごろに渡来し山城の国(現在の京都・太秦の辺り)に住み着いた渡来人の秦氏の一族によって伝えられた養蚕と絹織物の技術にあります。
大陸から伝わった養蚕と絹織物の技術は、奈良時代には日本各地に広まっていき、貴族たちの服の素材として朝廷に収められるようになります。
平安時代に入ると、絹織物は律令制のもとで朝廷に作られた織物や染色を司る役所である織部司(おりべのつかさ)で管理されるようになり、その技術は織部司が管理する綾部町(現在の京都市上京区上長者町付近)の工房の職人たちによって受け継がれていきました。
しかし、平安時代中期以降になると律令制が崩壊し、織部司が管理する工房は徐々に衰えていきます。
これにより、職人たちは大舎人町(現在の京都市猪熊通下長者町付近)の移り住み、自らの職として織物業を営むようになっていき、大舎人座という織物集団を作りました。
大舎人座の作る織物は、鎌倉時代には朝廷からの注文を請け負うだけでなく、一般の貴族や武士たちの注文も請け負うようになります。
ところが、室町時代中期に起こった応仁の乱によって京都は戦火に飲まれたため、職人たちは京都を離れて堺など日本各地に逃れました。
そして、応仁の乱がようやく治まった後、職人たちは再び京都へ戻ってきます。
このときに戻ってきた職人たちの一部が、応仁の乱の時に西陣(西軍の本陣)があった大宮今出川付近に移り住み、ここで再び大舎人座を立ち上げて織物業を営むようになったことから、この地で作られる織物を「西陣織」と呼ぶようになりました。
この大宮付近に戻ってきた職人たちは、髙機(たかはた)という大陸の織物技術を取り入れ、先に染められた糸を使って模様や色柄を織り出す「紋織(もんおり)」を製作するようになり、これが現在の西陣織の基礎になったといわれています。
こうして西陣織とその産地は朝廷に認められ、豊臣秀吉などの保護も受けて発展していきました。
その後も西陣織は中国の新しい技術を取り入れて発展していき、京都を代表する産業とったのです。
江戸時代に入ると、幕府の保護を受け、また裕福な町人たちにも需要が広がっていったことから、西陣織はさらに発展し黄金期を迎えます。
しかし、1730年(享保15年)6月に起こった大火事によって西陣地区の大部分が燃えてしまい、機織り機や民家が多く燃えてしまったことをきっかけに、西陣の織物業は徐々に衰退していきました。
火事で焼け出された職人たちは、丹後・長浜・桐生・足利などの京都以外の絹織物が発展していた地域に移っていき、西陣織の技術は地方に伝わっていきました。
明治時代に入ると、首都が東京に移ったことや幕府の保護が無くなったこと、西洋文化が取り入れられたことなどにより、西陣織の需要は激減します。
そこで京都府は西陣織の保護育成を行うために、1869年(明治2年)に西陣物産会社を設立し、フランスのジャガード織物などの先進技術を取り入れました。
新しい西陣織は各地の博覧会で受賞したことなどにより、明治末には再び西陣織の需要が高まっていきました。
第二次世界大戦後には、機械化がさらに進み、最近では高級な着物や帯だけでなく、ネクタイやカーテン、バッグなども作られるようになり、手軽に西陣織が購入できるようになりました。
<西陣織の種類>
西陣織には次のような12種類の伝統工芸品種があります。
・綴織(つづれおり)
緯糸(ぬきいと)と呼ばれる織物の横糸だけで文様を出し、織物の表面からは経糸(たていと)が見えないという特徴の品種です。
最古の技法と言われている「爪掻き(つめがき)」という独特の技法で織られるもので、シンプルなものから複雑な文様まで表現できるため、西陣織の中でも最高級とされています。
綴織は、「綴機(つづればた)」という人に手足のみで操作する織機を使用し、職人さんは中指と人差し指の爪をのこぎりの歯の様にギザギザにして横糸を掻き寄せて織っていくもので、熟練の職人さんでも1日に数センチしか織れないこともあるそうです。
・経錦(たてにしき)
色が付いた経糸(たていと)によって文様が織り出されている錦(色とりどりの様々な糸を使って織られた絹織物)です。
・緯錦(ぬきにしき)
経糸を白地にし、色が付いた緯糸によって文様が織り出されている錦です。
緯錦は、奈良時代に中国から伝わった当時の最先端技術を取り入れた技法で、縦錦よりも多くの色を使って大形の文様を表現できるのが特徴です。
・緞子(どんす)
生糸の膠質という成分を除去して特有の光沢と手触りを出した絹糸を使って作られた絹織物です。
朱子織(しゅすおり)という緯糸の浮きが少なく経糸が生地の表面に多く出ている織り方で、室町時代に中国から伝わったとされています。
密度が高く厚地ですが、柔軟性や光沢があるのが特徴です。
元々は男性の衣服に使われていましたが、元禄ごろから女性の衣服にも使われるようになりました。
・朱珍(しゅちん)
室町時代から作られるようになった品種です。
緞子と同じく朱子織ですが、地上げ紋(表面に出る糸を浮いたように見せる技法)が無く緞子ほど糸が表面に出ているように見えないのが特徴です。
・紹巴(しょうは)
強く撚った(よった)糸を経糸、緯糸共に使用して織ったものです。
糸を強く撚っているため、丈夫で表面がサラッとした軽い手触りなのが特徴です。
生地が薄いため、以前は羽織裏などに使われていました。
・風通(ふうつう)
通常の織物の断面は一層だけですが、風通は断面が二重・三重と多層構造になっているのが特徴の品種です。
上下または上中下それぞれ異なった織り方を交互に表面に出して模様を表します。
二重織りのものは裏表で文様は同じですが色が反転したものを作ることができるのが特徴です。
・捩り織り(もじりおり)
隣り合う経糸が絡み合って編み物のような特色の織物です。
緯糸と緯糸の間に隙間ができるのが特徴で、紗(しゃ:薄く透き通った絹織物)や羅(ら:目の粗い絹織物)、絽(ろ:紗よりも少し目の詰まった薄く透き通った絹織物)などになります。
・本しぼ織(ほんしぼおり)
撚糸(糸をより合わせたもの)をかけた経糸と緯糸を使って織りあげた後にぬるま湯で揉んで「しぼ」と呼ばれる凹凸を出した織物です。
生地は光沢とシャリ感があり、柔らかく厚めで重みがあるため、縮緬(ちりめん)やお召(おめし:最高級の着物)などが有名な、京友禅になくてはならない品種です。
・ビロード
なめらかで柔らかい肌触りと深みのある光沢が特徴の品種です。
西陣織のビロードは、横に針金を織り込み、後で針金の通った部分の経糸を切って起毛したり、引き抜いてループを作ったりする有線ビロードと呼ばれる技法で作られています。
因みに、上杉謙信のマントは西陣織のビロードで作られている最古のものとされています。
・絣織(かすりおり)
部分的に染めた糸を経糸・緯糸両方に使って平織(経糸と緯糸を1本ずつ交互に交差した単純な織り方)に織りあげて文様を表す品種です。
・紬(つむぎ)
真綿を経糸・緯糸に使った平織の織物です。
絹織物より安く、丈夫で素朴な織物で、普段着などに使われてきた品種です。
養蚕地帯では商品にならない屑まゆも利用されており、家庭用として使っていたそうです。
▪まとめ
西陣織は、昔から京都の職人たちによって伝え守られてきた伝統的な織物です。
そして、ただ古いだけでなく、その時代時代の最先端技術を取り入れ進化し続けており、豪華で煌びやかな文様のものからシンプルで素朴な文様まで様々な種類のものがあります。
西陣織は高価で手が届かないものも多いですが、小物などは比較的安価で今風のかわいいものもたくさんあるので、京都に行った際には西陣織に触れてみてください。
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