▪はじめに
みなさんは世界的にも有名なル・マン24時間耐久レースをご存知でしょうか。
かつて歌手の近藤真彦さんもこのレースに参戦して話題になったこともあります。
今回は、レーサーにとって憧れの舞台であり、また最も過酷なレースとされるル・マン24時間耐久レースの記念日のお話です。
目 次
ル・マンの日
ル・マンの日とは、毎年5月26日にあります。
ル・マンに日は、1923年5月26日にフランス北西部の町ル・マンで第1回目の24時間耐久レースが開催されたのを記念して制定されました。
▪意味
ル・マンの日は、1923年から現在まで続く24時間耐久レースの長い歴史の始まりを讃えるためにあります。
ル・マン24時間耐久レースは、1923年から始まってレースをしなかったのはフランス自動車工業会のストライキがあった1936年と第二次世界大戦の戦中から戦後にかけての8年間(1940年~1948年)だけの歴史あるレースなのです。
▪由来
ル・マンの日は、1923年5月26日に初めてル・マン24時間耐久レースが行われたことに由来しています。
▪イベント
毎年、フランスのサルト県ル・マン市郊外にあるサルテ・サーキットで24時間耐久レースが行われます。
レースが開催されるのは1年で一番昼の長い夏至の頃である6月の中頃で、24時間耐久レースが2018年には6月16日(土)~6月17日(日)で決勝レースが行われました。
ル・マン24時間耐久レースではレースウィークと呼ばれる期間があり、1週間かけてマシンの点検や予選、本選を行います。
まず、本選前の日曜日と月曜日にル・マン旧市街地のリパブリック広場での参加マシン点検の一般公開があり、水曜日にフリー走行と1回目の公式予選、木曜日に2・3回目の公式予選が行われます。
そして決戦前日の金曜日にル・マン市内でレースに参戦するドライバー達のドライバーズパレードが行われます。
このドライバーズパレードは、ル・マンのクラシック・オートモーティブ・オーガニゼーションが主催するイベントで、ドライバー達は色々なクラシックカーに乗ってパレードをし、時には車から降りて沿道のファンとの交流を楽しんだりもします。
パレード中は、ドライバーと一緒に写真を撮ることが出来たり各チームのグッズが配られたりとファンにはたまらないサービス満点のパレードです。
パレードの翌日の土曜日の午前中に各チームがウォーミングアップを行い、午後3時にレースが開始され次の日の午後3時までの24時間走り続け、最も長い距離を走ったチームが優勝となります。
ル・マンの雑学
<ル・マンのサーキットはなんと公道!>
毎年夏至の時期に行われるル・マン24時間耐久レースですが、このレースのサーキットは普段は地方道として使われている一般公道を閉鎖して、常設のサーキットとつないで作られているのです。
元々この行動を使ったサーキットは耐久レース用に作られたものではなく、1906年にフォーミュラレースのフランスグランプリを開催するために作られたものでした。
初めは1周103.18㎞のコースでしたが1921年に1周17.262㎞の別コースでフランスGPが開催され、1923年に24時間耐久レースが行われるようになりました。
長い歴史の中で、コースは度々改良され1923年当初は1周17.262㎞だったコースは改良を重ねるうちに1周の距離が短くなっていき、1932年以降は1周13㎞台となり2007年の14回目の改良で1周13.629㎞のコースが設定されてから現在までこの距離でレースが行われています。
レースウィーク中、決勝前日の10:00~20:00の時間帯にはピットを歩くこともでるんです。
また、レースが行われていない時期はコースの1部は公道として実際に走ることも出来るということでレースが開催されていない時期でもル・マンは世界中からファンの人たちが多く訪れる人気の高い観光地になっています。
<ル・マンには魔物が棲む?1955年に起きたル・マンの悲劇>
ル・マン24時間耐久レースは、過酷なレースだけに思わぬハプニングも多く「ル・マンには悪魔が棲む」と言われたりもします。
中でも1955年に起きた大事故は悲劇としか言いようのないものでした。
ル・マン24時間耐久レース史上、伝説の男と呼ばれたピエール・ルヴェーというレーサーがいました。
彼は、1952年に24時間のレースをたった1人で出場して、23時間まではトップで走り続けたレーサーでした。
残念ながらこの時のレースではあと一歩で優勝を逃してしまいましたが、この活躍を見ていたメルセデスベンツのチームの監督が彼をスカウトされ1955年にチームの一員としてレースに参加しました。
しかし、このレース中トップを走っていたジャガーのマシンが周回遅れのオースチン・ヒーレーのマシンを抜いた直後に急減速してピットインしました。
この急減速による追突を避けようとして進路変更したオースチン・ヒーレーのマシンにピエール・ルヴェーが運転するメルセデスのマシンが追突してしまったのです。
衝突の衝撃で空中に飛び上がったメルセデスのマシンはスタンドの壁にぶつかりバラバラになって燃え上がり、飛び散ったマシンのエンジンやサスペンションがそのままの勢いで観客席に落ちてしまいました。
この事故は、死亡者86名、重軽傷者約200名の大惨事になり、全てを見ていた交代のドライバーは精神的ショックから二度とレースに出場することが出来なくなったほどで、ル・マンの悲劇として今も語り継がれています。
▪まとめ
ル・マンの日は実際のレースの日より1か月ほど早いですが、その1か月の間に出場するチームのことを調べたりル・マンの歴史に思いを馳せてみるのも、レースの楽しみ方の1つではないでしょうか。
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