■はじめに
新年を迎える準備に追われる12月から、1月に入るとお正月だけでなく成人式などで着物を目にすることも多い季節になります。
年明けのこの時期、着物に袖を通すというのは気の引き締まる思いといったところでしょうか、特別な気持ちになりますよね。
そんな1月の半ばには、私達が古くから馴染みのある着物に関連する振袖火事の日があります。
目 次
■振袖火事の日とは
振袖火事の日は毎年1月18日にあります。
振袖火事が起こったのは、明暦3年1月18日のこと。
明暦の大火として知られる振袖火事の日ですが、この年は干支であったことから丁酉火事(ひのととりのかじ)、火元の地名から丸山火事(まるやまかじ)などと呼ばれることもあります。
■意味
振袖火事の日は、火事に対して正しい興味を認識を持ってもらうという意味合いがあります。
歴史に残る大火となった振袖火事は、人々に様々な教訓を残しました。
街の復興にあたり幕府からも通達があり、防火体制の強化、避難所や避難ルートの確保等など、現在に伝わる内容もたくさんあります。
■由来
明暦3年1月18日(1657年3月2日)、江戸の大半を焼いた大火災「振袖火事」が起きました。
当日14時ごろ(未の刻)、本郷丸山の本妙寺より出火し神田、京橋方面に燃え広がり、隅田川対岸にまで及びました。
諸説あるものの全体の死者数は3万~10万と記録されています。
このことから、振袖火事の日は1月18日に制定されました。
■イベント
振袖火事の日の関連イベントや行事についての情報は、残念ながら得ることは出来ませんでしたが、火元として知られる本妙寺では現在も史跡として案内板や供養塔が残されています。
いわゆる「振袖火事」の話しは伝説とされており、火元が本妙寺であるということも定かではなく、火元を引き受けたという説もあるのだとか。
この大火の後、江戸の市街地が整備される中、本郷丸山から移転させられることもなく罰も受けずに復興した本妙寺。
1910年(明治43年)には現在の豊島区巣鴨へ移転し、境内の墓地には明暦の大火の死者を弔うために供養塔が建てられています。
ちなみに、現在も本郷5丁目付近には“本妙寺坂”という地名が残されています。
この時期、東京の街を散策される際には、ぜひチェックして歴史に触れてみるのはいかがでしょうか。
振袖火事の雑学
振袖火事の日にちなんだ雑学をご紹介します。
□振袖火事の規模
振袖火事とは明暦の大火のことを指しますが、明和の大火・文化の大火と並んで江戸三大大火と呼ばれています。
関東大震災や東京大空襲などを除くと日本史上最大の火災であり、ローマ大火・ロンドン大火と並んで世界三大大火と呼ばれることもあります。
特に振袖火事の被害は死者、延焼面積ともに江戸時代最大であったと言われています。
外堀以内のほぼ全域と天守を含む江戸城、多数の大名屋敷や市街地の大半までもを焼失し、江戸城天守はその後再建されることはありませんでした。
□振袖火事の伝説
本郷の本妙寺に母と墓参りに行った裕福な質屋の娘、梅乃はその帰り、上野の山ですれ違った美少年に一目惚れし、恋の病からか食欲もなくし寝込んでしまいます。
心配した両親は、彼が着ていた服と同じ荒磯と菊柄の振袖を作りました。
その振袖をかき抱いて過ごす日々でしたが、梅乃はその若さでなくなってしまいます。
両親は娘の棺に形見の振袖をせめてもの供養にとかけてあげました。
棺にかけられた遺品などは当時、寺男たちがもらっていいことになっていて、この振袖は本妙寺の寺男によって転売され上野の町娘、きののものとなります。
ところが、きのもしばらくして病気で亡くなり、振袖は彼女の棺にかけられ奇しくも梅乃の命日にまた本妙寺に持ち込まれました。
寺男たちはまた振袖を売り、今度は別の町娘、いくの手に渡りました。
しかしいくもまた病気になって亡くなり、振袖もまた棺にかけられて本妙寺に運び込まれてきました。
寺男たちはさすがに因縁を感じ、問題の振袖を寺で焼いて供養することにしました。
住職が読経し護摩の火の中に振袖を投げ込むと北から狂風が吹き、裾に火のついた振袖は空に舞い上がり寺の軒先に落ちて火を移しました。
たちまち大きな屋根を覆った炎は突風に煽られ、次々と燃え広がり江戸の町を焼き尽くす大火となりました。
■まとめ
振袖火事の日についてご紹介させて頂きました。
この時期、空気が乾燥し特に火の元に注意が必要なのはいつの時代も同じこと。
現在の防火や火災への対策は、過去の出来事の教訓によるものなんですね。
毎年1月18日振袖火事の日には、当時の歴史に触れてみたり、改めて火事への対策を見直してみるのがおすすめです。
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