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阿礼祭とはいつ?意味や由来、賣太神社(めたじんじゃ)で稗田阿礼の遺徳を偲ぶ

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▪はじめに

阿礼祭とは、奈良時代に「古事記」の編纂をした官人の1人である稗田阿礼(ひえだのあれ)の遺徳を偲ぶ祭です。

この祭事は、1人の童話作家の呼びかけから始まりました。

そこで今回は、阿礼祭やこの祭事のきっかけとなった人物などについて詳しく紹介していきましょう。

 

阿礼祭とは

阿礼祭は、毎年8月16日にあります。

阿礼祭は、児童文学者の久留島武彦氏が、アンデルセンに匹敵する日本の「話の神様」は、「古事記」を編纂した稗田阿礼が最もふさわしいとし、全国の童話作家たちの協力を得て1930年(昭和5年)に始めた祭りです。

 

阿礼祭は、稗田阿礼をご祭神とする奈良県大和郡山市のある賣太(めた)神社で毎年8月16日に行われています。

 

▪意味

阿礼祭は、古事記を口伝えした語り部であり、その記憶力の良さから学業の神様としても祀られている稗田阿礼の遺徳を偲ぶために行われています。

 

▪由来

阿礼祭が8月16日に行われるようになった理由は残っていません。

 

▪イベント

稗田阿礼命を祭神としている奈良県大和郡山市の賣太神社(めたじんじゃ)では、毎年8月16日に稗田阿礼の遺徳を偲ぶ「阿礼祭」を行っています。

 

「阿礼祭」では、午前8時に「子供みこし渡御」を行った後、午前10時から祭典が行われます。

祭典では祝詞があげられた後、巫女による「稗田の舞」や子供たちによる「阿礼さま音頭」や「阿礼さま祭子供の歌」などが奉納されます。

また、午後からも「鎮守の杜お話フェスティバル」や「古事記転読会」などのイベントが行われ、毎年多くの観光客が訪れています。

奈良寺社ガイドHP  https://nara-jisya.info/#

 

阿礼祭の雑学

<稗田阿礼は古事記の語り部>

阿礼祭の主役である稗田阿礼とはどのような人物だったのでしょうか?

 

稗田阿礼は、7世紀半から8世紀初めに生きていたとされる官人です。

阿礼に関する詳しい資料はほとんど残っておらず、実際には男性だったのか女性だったのかも定かではありません。

「舎人」という男性だけに与えられた官職についていたとされているので、恐らく男性だったのではといわれていますが、「アレ」という名前が当時の巫女の総称だったことや阿礼が猿女君という朝廷に使える巫女の一族出身だったことから、女性とする説もあります。

 

稗田阿礼は、大和国添上郡(そうのかみこおり)稗田邑(ひえだむら)(現在の奈良県奈良市南稗田)の出身で、天照大御神(アマテラスオオミカミ)が天の岩戸に隠れた時に岩戸の前で踊った天鈿女命(アメノウズメノミコト)の子孫の猿女君(サルメノキミ)の一族であったといわれています。

阿礼は、一度目にしたものはすぐに言葉にすることができ、耳にしたものは決して忘れない優れた記憶力を持っていたとされています。

阿礼はその能力を見込まれて、28歳のときに天武天皇から天武天皇自身が全国から集めた神話や伝承などをまとめた「帝紀」や「旧辞」など天武天皇から直接口伝えされ、それを繰り返し読み聞かせる誦習(しょうしゅう)という作業をするよう命じられました。

これは、天武天皇が新しい国史を編纂するために行ったことでしたが、天武天皇が亡くなったことでこの事業は中止となってしまいました。

しかし、元明天皇が天武天皇や持統天皇が成そうとしていた国史編纂の事業を再開させたことで、当時65歳だった阿礼が再び命を受けます。

阿礼が天武天皇から受け継ぎ暗誦した「帝紀」や「旧辞」を太安万侶(おおやすまろ)が漢文体を交えて記録し、ついに712年に現在まで伝わる日本最古の歴史書「古事記」が完成したのです。

 

このことから、稗田阿礼は「学問の神様」や「話の神様」として賣太神社で祀られるようになりました。

 

<「日本のアンデルセン」と呼ばれた久留島武彦>

阿礼祭を提唱した久留島武彦は明治・大正・昭和にかけて活躍した児童文学者です。

代表作には「トラの子ウーちゃん」や「すずむし」などがあり、童謡「夕やけ小やけ」の作詞も手掛けています。

 

大分県玖珠郡森町(現在の玖珠町)出身で、大分中学(現在の大分県大分上野丘高等学校)に通学中、英語教師であったアメリカ人宣教師S・H・ウェンライト氏から英語とキリスト教について指導を受け、将来児童教育をすることを勧められます。

ウェンライト氏に大きな影響を受けた武彦は、キリスト教の洗礼を受け、ウェンライト氏が関西学院に移ると一緒に関西学院に転校し、19歳のときに神戸美以教会日曜学校の校長に任命されました。

武彦はこの日曜学校で子供たちにキリスト教を分かりやすく伝える仕事をしたことから、子供たちにお話を語る楽しさを知ったといわれています。

卒業後、日本基督教の機関紙「福音新報」の編集に就職が決まっていたものの、日清戦争勃発に伴い、軍隊に入隊することとなりました。

編集の仕事ができなくなって落ち込んでいた武彦でしたが、なんと「尾上新兵衛」というペンネームで兵隊物語を書いて遼東半島から出版社へ投稿します。

その作品は認められ、「少年世界」という人気子供向け雑誌で連載することとなりました。

武彦は、兵隊物語を書きながら、得意の英語でグリム童話の翻訳をしたり童話を創作したりと児童文学の道を進んでいきました。

3年間の兵役が終わり除隊したあと、結婚した武彦は新聞社や商社など職を転々としますが、

貧しくて本を買えない子供たちを見て、「本を買うのはお金がかかるが、はなしなら医師団でも、山でも、海辺でも子供のいる所なら、いつでも、どこでもできる」と考え、1903年(昭和36年)に童話を語り聞かせる「口演童話」と「お伽芝居」開催しました。

その後も武彦は、お伽倶楽部を設立し日本各地や満州・朝鮮などで口演童話会を開催したり、日本初の児童劇団・東京お伽劇協会を設立して公演を行ったりしながら、童話作家として作品を書き続けました。

また、武彦は幼稚園を設立したりボーイスカウトを日本に広める活動をしたりして、生涯児童教育に携わりました。

武彦は、アンデルセンの作品を日本に広めた人物でもありますが、50歳のときにデンマークで開催された世界ボーイスカウト大会に参加した際、アンデルセンの生家やお墓が荒れ放題になっていることを目の当たりにして心を痛め、デンマーク国内でアンデルセンの復権を訴え、デンマークの人たちの心を動かし「日本のアンデルセン」と呼ばれるようになったといわれています。

そんな武彦が、アンデルセンに匹敵する「話の神様」と呼ぶのに最もふさわしいのは稗田阿礼であることを訴え、日本全国の童話作家たちの協力の元に、阿礼の功績を偲ぶ祭である阿礼祭を稗田阿礼を祭神としている賣太神社で行うようになったのです。

 

武彦は、口演童話の活動を86歳で亡くなる直前まで行い、生涯を児童教育に捧げました。

 

▪まとめ

阿礼祭は、古事記の編纂に携わったとされる稗田阿礼を「話の神様」として偲んだお祭りです。

阿礼祭を始めた久留島武彦氏は、子供たちのために童話を読み聞かせてきました。

現在も読み聞かせは子供たちの想像力や集中力を育て、感情を豊かにするとして全国の幼稚園や保育園、小中学校などで行われています。

小さなお子さんがいるご家庭ではお父さんやお母さんが読み聞かせをしている家庭も多く、大切なコミュニケーションの1つともなっています。

阿礼祭の日には、小さなお子さんがいないご家庭でも久しぶりに童話を読んでみたり読み聞かせをしてみたりしても楽しいかもしれませんね。

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