「8月30日 富士山測候所記念日」
■はじめに
成層圏の存在も知られていなかった19世紀の後半に「天気が上空から変わるのなら、日本一高い富士の山頂で観測すれば正しい予報ができるはず」と考えた日本人がいました。
目 次
富士山測候所記念日とは
1895(明治28)年8月30日、気象学者の野中到氏(1867~1955)が富士山頂剣ヶ峯に私財を投じて気象観測所を開設しました。
この「野中測候所」はのちに中央気象台(現気象庁)に引き継がれ、1936(昭和11)年に「富士山頂気象観測所」が建設されることになります。
近代的気象観測の道を開いた野中氏の偉業を称える意味で、8月30日は「富士山測候所記念日」と呼ばれるようになりました。
■富士山測候所記念日の意味と由来
野中氏は気象学の発展のためには富士山頂に観測所を建設し、通年観測が必要との信念から、1895年2月に自ら冬季の富士山に登頂して越冬観測が可能であることを確認した上で、その夏に再び登頂し、約6坪の測候小屋を建てたのが8月30日でした。
中央気象台も野中氏に協力し、技師らの派遣や気圧計、温度計、風力計、雨量計などの観測機器、沼津測候所との連絡用機器を提供しています。
野中氏の妻千代子さん(1871~1923)も10月に登頂し、2人で越冬観測に臨みましたが、夫妻は高山病と栄養失調で歩行不能となって救援され、わずか82日間の観測に終わっています。
しかし富士山での気象観測の重要性を認めた中央気象台は、翌年から夏場だけの気象観測を始め、1932(昭和7)年からは通年観測となりました。
■富士山測候所記念日のイベント
「富士山測候所記念日」に特化したイベントは実施されていませんね。
富士山測候所記念日の雑学
▽戦時下の天気予報は軍事機密
いざ戦争が始まると、天気予報は軍事機密の扱いになります。
太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年12月8日の朝は気象に関する報道管制が敷かれ、新聞やラジオから天気予報が消えてしまいました。
中央気象台から各地の気象台へ送られる気象無線はすべて暗号化され、乱数表による解読が必要となり、一般人に予報を教えることは厳禁とされました。
農作業に欠かせない霜害や降雨、干ばつなどの予報が消えたことで農業者も困り、低気圧の情報がない漁業者は遭難の危険すら覚悟しなくてはなりません。
また、台風情報も一切発表がなかったため、戦時中に発生した東南海地震と三河地震を合わせると、4655人もの死者・行方不明者が発生し、報道管制のため新聞に載ることもありませんでした。
東京・神宮球場の六大学野球で、フライが太陽に入って落球した際、アナウンサーは「打球が太陽に入って……」とは言えず、「折からの自然的悪条件のため……」と中継したそうです。
試合が出来ているんだから雨降りではないことくらいは見当がつきますが、晴れと曇りの違いさえ軍事機密になったんでしょうか。
気象技術者は南方戦線で空港建設に欠かせない存在で、風向・風速観測や作戦開始のタイミングを知るために多くの気象技術者が動員され、戦地に散ってしまいました。
NHKラジオの天気予報が復活したのは、敗戦1週間後の正午のニュースでした。
「東京地方、今日は天気が変わりやすく、午後から夜にかけて時々雨が降る見込み」
が3年8か月ぶりの予報でした。
■最後に
富士山測候所職員が68年間書き続けた40冊以上に及ぶ「カンテラ日誌」が、公文書ではないとして廃棄されてしまいました。
気象観測だけではなく、山頂から見た戦争の様子を記録した貴重な民間資料で、単に「個人の日記」として廃棄するのは、規定とは言え配慮が足りないと言わざるを得ません。
時折、民家の蔵で発見される貴重な歴史史料のほとんどは個人の「覚え書き」です。
長い年月で公文書がヤマほどあるのは承知ですが、民間資料として生かせる方途も探ってほしいものです。
なお、廃棄以前に編集された「カンテラ日記」という本が1985年に出版されているそうです。
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