「8月24日 ポンペイ大噴火の日」
■はじめに
「ポンペイ大噴火の日」と言われますが、正しくはポンペイという都市が、ヴェスヴィオ火山の大噴火によって消滅した日です。
これは歴史上に数多くある悲劇のひとつが起きた日であって、記念日と呼んではいけませんね。
目 次
ポンペイ大噴火の日とは
日本で言えば弥生時代にあたる西暦79年8月24日、古代ローマでヴェスヴィオ火山が大噴火し、時速100kmを超えるスピードの火砕流と有毒ガスで、麓の古代都市ポンペイに住む1万人が犠牲となり、降り注いだ火山灰は8mも堆積して、ポンペイは地中に埋もれてしまいました。
ポンペイは現在のイタリア南部ナポリ湾に面したローマ人富裕層の保養地で、近年の発掘調査では劇場や公衆浴場、下水道、多くの美術品が出土されています。
■ポンペイ大噴火の日の意味と由来
79年の噴火は甚大な被害を出したことで有名ですが、ヴェスヴィオの噴火はこれだけではありません。
これ以前の紀元前217年にも大噴火があり、ポンペイ後の432年に次いで、1631年12月16日の噴火では約3000人が死亡、1822年には噴煙が14kmもの高さにまで噴き上がる噴火が起き、直近の噴火は1944年3月22日に村をひとつ埋没させています。
地球上で最も危険な火山と言われるのも当然ですね。
はるか昔のポンペイの悲劇ですが、その詳細の多くが判明しているのは、発掘研究の他に、当時のローマの博物学者が記した資料が残されているからです。
噴火の数日前から兆候はあったそうで、事前に船で逃げた人も多くいましたが、やはり逼迫した危機として感じていない人がほとんどでした。
この噴火は「プリニー式噴火」に分類され、噴火と同時に爆発的に大量の軽石や火山灰を高く噴き上げ、時速100~300kmという火砕流も発生し、場合によっては周囲100kmを瞬時に壊滅させることもある恐ろしい噴火です。
この火山灰は上昇気流と偏西風に乗ることで、世界中に拡散して日光を遮り、地球規模の異常気象を引き起こして、農作物の大凶作につながった例もあります。
富士山の宝永大噴火、1883年のインドネシアのクラカタウ噴火も、プリニー式噴火として有名です。
■ポンペイ大噴火の日のイベント
大昔のことで慰霊祭などの行事はありませんが、この世界一凶暴な火山を抱えるイタリアでは、噴火予知後の2週間以内に、国の全機関、運輸を総動員して、住民の強制避難計画を策定済みです。
また、この大量避難は欧州全域に影響が及ぶため、イタリアだけではなく欧州全体の問題として認知され、フランスやスペイン、ポルトガルなどの周辺国も大規模な避難訓練に参加しています。
(避難訓練をイベントの項に書いて、申し訳ない気がしますが…)
ポンペイ大噴火の日の雑学
▽日本のポンペイ「黒井峯遺跡」
1982(昭和57)年、群馬県渋川市で2.5mの厚さの軽石層の下から、1500年前の住居跡や水田、畑が発掘されました。
さらに調査を進めると、壁をめぐらして屋根をかけた平地式の住居や倉庫、家畜小屋、祭祀跡などが次々に発見され、日本中を驚かせました。
これは6世紀ころに起きた榛名山の大噴火による大量の軽石、火山灰の噴出が、火災や倒壊を起こす間もなく、瞬時に村を埋没させたものと推定されています。
黒井峯遺跡の発掘調査は、古墳時代の村は原始的であるという従来の見方を覆し、江戸時代の農村に近い形であったことを示しています。
▽富士山大噴火
富士山は日本最大の活火山ですが、有史以後だけでも多くの噴火が起きており、中でも、800年ころの「延暦大噴火」、864年の「貞観大噴火」、1707年「宝永大噴火」は、有史以来の富士山三大噴火としてよく知られています。
「貞観」は精進湖、西湖、青木ヶ原樹海をつくり、「宝永」の噴火は2週間続いて、元禄文化に浮かれた江戸に甚大な被害を与えました。
宝永以後、大きな火山活動はなく、それがかえって不気味で、富士山大噴火の警鐘が取りざたされています。
■まとめ
もし富士山に三大噴火並みの噴火が起きれば、江戸時代とは比べものにならないほどの人口、社会インフラを考えると、その被害は想像を絶するものがあります。
噴火は止めようがなく、個人の備えでどこまで太刀打ちできるものか、心細い限りです。
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