▪はじめに
太平洋戦争の終戦間際、広島に続いて2つ目の原爆が長崎に投下されました。
広島の原爆投下から3日後の8月9日は、たった1発の原爆で消えてしまった長崎の町と多くの命を慰霊する日です。
目 次
長崎原爆忌とは
長崎原爆忌は、毎年8月9日にあります。
原爆忌とは、国が定めた慰霊の日の1つです。
この日は、1945年(昭和20年)8月9日の午前11時2分にアメリカ軍のB29爆撃機「ボックスカー」によりプルトニウム原爆「ファットマン」が長崎に投下された日です。
この原爆投下により、約7万4千人もの市民が亡くなり約7万5千人の重軽傷者が出ました。
また、長崎市はこの日を「ながさき平和の日」として原爆犠牲者の慰霊と、恒久平和を願う「祈りの式典」を毎年行っています。
▪意味
長崎原爆忌には、長崎で原爆の犠牲になった人たちの霊を慰め、平和への祈りを捧げるという目的があります。
▪由来
長崎原爆忌は、1945年(昭和20年)8月9日に長崎市の松山町付近にプルトニウム原爆「ファットマン」が投下されたことに由来しています。
「ファットマン」は広島に投下されたウラン原爆「リトルボーイ」の1.5倍の威力があったとされています。
▪イベント
毎年8月9日には、長崎市の平和公園(雨天時は長崎ブリックホール)で「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が行われています。
2018年の式典では、原爆投下時刻の午前11時2分に1分間の黙とうが捧げられるほか、原爆死没者への献花や献水、長崎市長による平和宣言や被爆者代表による平和への誓い、安倍晋三内閣総理大臣・グテーレス国際連合事務総長・長崎県知事のよる来賓挨拶、長崎市立山里小学校6年生と純心女子高等学校による長崎の原爆犠牲者慰霊の為に作られた曲の合唱などが行われました。
この式典で平和宣言と核兵器の廃絶、そして世界が永遠に平和であることの実現を毎年長崎市長が訴え続け、世界中に発信されています。
また、司会進行は毎回地元の高校生が行い、水を求めて死んでいった人たちの為の「献水」にも市内の小中学生が参加していて、原爆の悲惨さや平和への祈りを受け継いでいるのです。
夜には爆心地近くの長崎市松山町の浦上川で地元の小学校や自治会などで作られた灯篭を繋げて船でゆっくり引いていく「万灯流し(灯篭流し)」も行われます。
長崎原爆の雑学
<平和祈念像のモデルは昭和の有名プロレスラー?>
長崎の平和の象徴として有名な平和祈念像は、平和公園の中にあります。
実物は見たことない人でも、テレビや写真などで1度は見たことはあるのではないでしょうか。
私は中学校の修学旅行で平和公園に行き、この像の前で集合写真を撮りました。
思っていたよりも大きくて圧倒されたことを覚えています。
この像は、1955年(昭和30年)の被爆10周年の記念行事の一環として長崎県南島原市出身の彫刻家・北村西望によって作られ、天に向けて高く挙げられた右手は原爆の脅威を、まっすぐ横に伸ばされた左手は平和を、横にした右足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、膝を立てた左足は救った命を表し、軽く閉じた目は戦争犠牲者の冥福を祈っているとされています。
この平和祈念像は、当時人気プロレスラーの力道山がモデルになっているという説もありますが、台座に刻まれた作者の北村氏の言葉には「是人種を超越した人間 時に佛 時に神」と記されていてはっきりとしたモデルがいるのかどうかは謎のままです。
<原爆投下直後の長崎を走った救護列車>
長崎に原爆が投下された時、鉄道も壊滅的な状態でした。
爆心地に近い浦上駅と長崎駅は駅舎が燃えて倒壊してしまい、職員157人が死傷しました。
線路も熱で溶けて変形したり、枕木が燃えてしまってとても列車を走らせることができる状態ではありませんでした。
それでも8月9日の原爆投下後、4本の列車が救護の為に走ったのです。
救護列車は爆心地から1.4㎞ほど離れた照圓寺付近までしか進めず、そこで負傷者を収容しました。
負傷者を乗せた列車は、線路に倒れている人が大勢いる中、汽笛を鳴らしながら慎重に進み、海軍病院のあった諫早や大村まで運びました。
残念ながら、諫早や大村に着くまでに列車の中で半分以上の人が亡くなってしまったそうですが、それでもこの救護列車のおかげで数われた命も沢山あったと思います。
この救護列車のお話は、原爆の爆風の中唯一残った照圓寺の門柱の横に設置された説明版に平和への祈りと共に残されています。
▪まとめ
長崎原爆忌は、日本人が決して忘れてはいけない日の1つです。
広島の原爆忌に比べると知名度が若干低いかもしれませんが、8月6日と8月9日どちらも慰霊と平和への願い込めて黙祷をしていきたいと思います。
8月9日は何の日?誕生日の有名人や星座、花言葉・運勢・性格は
他にもいろいろな記念日がたくさんあります。