▪はじめに
今から約35年前に、当時ソビエト連邦であったウクライナ共和国のチェルノブイリ原子力発電所が爆発するという史上最悪の原発事故が起こりました。
このチェルノブイリ原発事故を忘れないために制定されたのが、リメンバー・チェルノブイリ・デーという記念日です。
目 次
リメンバー・チェルノブイリ・デーとは
リメンバー・チェルノブイリ・デーは、毎年4月26日にあります。
この記念日は、1986年(昭和61年)のこの日に、旧ソ連のウクライナ共和国キエフ(現キーウ)近郊のチェルノブイリ原子力発電所で、4号高炉が爆発事故を起こしたことに因んで制定されたものです。
この原発事故で原爆の約400倍とされる放射能が放出され、原発事故による歴史上初めての死者(2人が即死、28人が放射能被爆によって死亡)を出し、ウクライナ・ベラルーシ・ロシアで大量の被爆者を出したり、広範囲の汚染区域を出したりするなど歴史上最悪の原発事故とされています。
▪意味
リメンバー・チェルノブイリ・デーには、1986年(昭和61年)の4月26日に起きたチェルノブイリ原発事故の悲劇を忘れないようにするという意味があります。
▪由来
リメンバー・チェルノブイリ・デーは、1986年(昭和61年)4月26日に旧ソ連ウクライナ共和国のチェルノブイリ原子力発電所が史上最悪の爆発事故を起こしたことに由来して制定された記念日です。
▪イベント
リメンバー・チェルノブイリ・デーに関するイベントは、残念ながら見つけることができませんでした。
チェルノブイリについて
<チェルノブイリ原発事故とは>
チェルノブイリ原子力発電所爆発事故は、1986年(昭和61年)4月26日の午前1時23分(モスクワ時間)に発生しました。
チェルノブイリ原子力発電所は当時のソ連が独自に開発した原子力発電所で、事故が起こった年には4台の原子炉が営業運転しており、更に5号炉と6号炉の建設中でした。
事故を起こしたのは4号炉で、事故当時4号炉は保守点検のため原子炉を止める作業中でしたが、この機会を利用してタービン発電機が完全に止まるまでの慣性の回転エネルギーでどのくらい発電できるのかという特殊な実験を行っていました。
しかしこの実験中に原子炉の出力が急上昇、ウラン燃料の温度も急上昇して水素や水蒸気が大量発生し大爆発を起こしてしまったのです。
この爆発により4号炉の原子炉建屋は破壊され、それに引き続いて起きた火災によって、広島・長崎に投下された原爆の約400倍とされる大量の放射能が排出されました。
火災は消防隊の作業によって原子炉周辺の火災は26日の5時ごろに鎮火しましたが、原子炉内の火災は続いていました。
つまりは放射能が大量に発生し続けていたということです。
しかし、当時のソ連政府はこのことをすぐに公表しませんでした。
住民の避難は事故が起こった翌日の4月27日から開始されました。
最初は原発に隣接する地区の住民から避難が始まり、さらに5月3日から原発から半径30㎞以内の住民全員の避難が行われ、全部で約13万5000人の住民が避難しました。
水蒸気爆発によって雲状になった放射能の塊は、西から北西に方向に流されてウクライナ北部やベラルーシ、ロシア西部に流されていき、放射性物質を撒き散らしました。
そして、27日にはバルト海を越えて放射性物質は流れていき、28日にはスウェーデンにまで流れ着いていたことが発覚しました。
スウェーデン政府はソ連政府に原発事故の有無を尋ねますが、ソ連政府は最初否定していました。
しかし、スウェーデン政府が国際原子力機関(IAEA)に事態を報告すると伝えるとソ連政府はやっとチェルノブイリ原発で事故が発生したことを認めます。
その後も放射能は拡散され、5月上旬までに北半球のほぼ全域で観測されました。
日本でも5月3日に降った雨の中から放射能が確認されています。
爆発した4号炉は炉内の火災を消火し放射能が発生しないようにするため砂や鉛が投下されましたが失敗に終わり、放射性物質を封じ込めるため4号炉を建屋ごとコンクリートで囲い込んだ「石棺」が作られ、さらにその周りを鉄板で取り囲みました。
ソ連政府は1986年8月に石棺が完成して残った原子炉の再開が間近であること、事故の始末や除染活動も順調に進んでおりは終了し、住民の健康被害も大したことはなかったと国際会議で報告した後は、この事故に関する情報を極秘扱いとして国内外問わずいっさい公表しませんでした。
しかし、1989年ごろからチェルノブイリから300㎞も離れた場所にも局所的に高濃度の汚染区域(ホットスポット)があることが明らかになりました。
つまりは、何も知らずに高濃度の放射能を浴びながら3年以上も生活していた人が大勢いたことが分かったというわけなのです。
ベラルーシ共和国でもこの頃にホットスポットが発見され、約11万人の移住を行っています。
この事故で、ソ連政府は運転員や消防士など33名が爆発と急性放射能障害によって死亡し、約200人が急性放射能障害となったが、避難住民の急性放射能障害は1つも無かったと発表しました。
しかし、ソ連崩壊後の1992年に事故直後1万人以上の子供を含む住民が急性放射能障害によって病院に収容されていたことが発覚しています。
また、リクビダートルと呼ばれる事故処理従事者やウクライナ・ベラルーシ・ロシアの被爆者に時間が経ってから発症する癌や白血病などの放射能による健康被害も数多く報告されました。
とくに注目されたのが子供の甲状腺がんで、直接的な被爆だけでなく、被爆した牛の牛乳を飲んだり肉を食べたりしたこと、母親が被爆していたことなどが原因だとされています。
事故から10年後の報告では約800人の子供の甲状腺がん患者いるとされていましたが、20年後には4000人以上に増加し、そのうち9人が亡くなったとされています。
この事故の原因は、基本的な設計の欠陥であったとソ連政府は報告していますが、じつはそれだけではなく、運転員の教育が不十分で規則通りに操作しなかったこと、特殊な実験中で安全装置を無効化していたこと、実験が計画とは違う状況になったにもかかわらず実験を続けたこと、原子炉の専門家でない人が運転指示を出していたことなど人為的な要因が多くあったとされています。
<現在のチェルノブイリ原発はどうなっているの?>
事故後のチェルノブイリ原子力発電所周辺はゴーストタウンとなりました。
立ち入り禁止区域内にあった松が多く生える森は、高レベルの放射性物質を取り込んだため枯れて赤茶色になり「赤い森」と呼ばれるようになりました。
人間のいなくなった原発周辺や赤い森にはオオカミやシカなどの野生動物たくさん住むようになりましたが、奇形の子ども生まれたり寿命より早く死んだりする動物が多くいるそうです。
事故を起こした4号炉を閉じ込めた「石棺」には雨水などによるコンクリートのひび割れや鉄板の腐食がみられたため、さらに「石棺」を覆う新シェルターの建設が約50か国の協力の元2010年から行われ、2016年に完成しています。
また、約25年もの間完全に立ち入り禁止となっていた原発から半径30㎞区域は、放射能レベルが低くなってきたとの発表があり、2010年にウクライナ政府が原子力発電所付近への一時的な立ち入りを許可しました。
これにより半径30㎞圏内へのツアーが行われるようになります。
チェルノブイリへの観光客は年々増加していき、さらに2019年にアメリカで原発事故に関するドラマが放送されたこときっかけとなり、観光目的で訪れるヨーロッパ人やアメリカ人が増えていきました。
また、禁止令が解かれていない内から故郷のある立ち入り禁止区域に帰って来て、以前と同じように生活するようになった人もいたようです。
このように、まだ事故の影響が残っているにもかかわらず少しずつ人間が戻ってきていたため、人々のチェルノブイリに対する危機感は薄れていっていたのかもしれません。
しかし、2022年2月から起きたロシアとウクライナの戦争でロシア軍がチェルノブイリ原発を占拠し、赤い森の中に砲撃から身を守るための穴を掘っていたロシア兵多数人が被爆し、急性放射能障害を起こしたとの報道がありました。
若いロシア兵だったので、チェルノブイリ原発事故のことをよく知っておらず、防護服などを着ることなく無防備な状態で作業していたとされていますが、皮肉にも戦争によって事故から37年経ってもまだ急性放射能障害を起こすほど高濃度の放射能が残っていることが証明されたのです。
チェルノブイリ原発は3月31日にロシア軍が撤退してウクライナの管轄に戻りましたが、周辺地域にロシア軍の兵士や車両の出入りが激しくなり、地面に積もっていた放射性物質が舞い上がったことで一時的に放射線量が増加したとの報告もありました。
原発周辺や赤い森はやはりこの先何世紀も人が入れない、死の土地のままなのです。
▪まとめ
当時小学生だった私も、事故後のゴーストタウン化したキエフ周辺や子供が放射能によって甲状腺がんになったというニュースを見てロシアで原爆が落ちたような恐ろしいことが起こっていると怖くなったことを覚えています。
原発事故やロシア兵の被爆は原子力や放射能に対する知識と危機感が薄かったことにより起こったことです。
ですから、リメンバー・チェルノブイリ・デーにはチェルノブイリ原発事故の悲劇を思い出すだけでなく、原発に対する正しい知識を得て、さらに子供たちとも話し合ってみてはいかがでしょうか。
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