▪はじめに
日本で最も寒い北海道で、明治時代に熱湯が一瞬で凍り付くレベルの日本最低気温を記録した日がありました。
今回は、その日に因んだ記念日や雑学などについてご紹介していきたいと思います。
目 次
日本最低気温の日とは
日本最低気温の日は、毎年1月25日にあります。
この記念日は、1902年(明治35年)1月25日に北海道旭川市で-41.0℃という日本観測史上最低気温を記録したことから制定されました。
▪意味
日本最低気温の日は、1902年(明治35年)1月25日に北海道旭川市で、日本観測史上最低気温を記録したことを記念して制定された記念日です。
この幌加内町の記録以外にはまだ日本観測史上(気象庁)で最低気温の記録は更新されていません。
▪由来
日本最低気温の日は、1902年(明治35年)1月25日に日本観測史上最低気温を記録した日に由来した記念日です。
▪イベント
冬の平均気温が-20.0℃となり、1978年2月に-38.0℃を観測した日本一寒い町として有名な北海道陸別町で、毎年寒さと戦うお祭りが開催されています。
その名も「しばれフェスティバル」!(「しばれ」とは北海道弁で「寒い」という意味です。)
「しばれフェスティバル」は毎年2月の第1土曜日と日曜日に開催されていて、毎年約8,000人の人が集まる人気のお祭です。
メインイベントは「人間耐寒テスト」で、バルーンマンションと呼ばれる氷のかまくらで一晩過ごすというものです。
バルーンマンションの中には暖房器具などは無く、熱で氷が溶けてしまうことと一酸化炭素中毒防止のために中で火を使うことも禁止されていて、用意されているのはダンボールと薄い発泡スチロールのシートのみです。
しばれフェスティバルは16:30から始まり、地元小学生による太鼓演奏やご当地アイドルのライブ、ゲストのお笑い芸人によるお笑いステージなどが行われます。
また、うどんやラーメンなどの屋台も沢山出店され、雪で作った滑り台や巨大パチンコなどもあり、耐寒テストに参加しない一般の人も十分に楽しめるイベントになっています。
18:00に「命の火」という大きなキャンプファイヤーの点火式があり、このキャンプファイヤーは一晩中燃える唯一の暖となります。
そして21:00、初日の祭りを締めくくる「しばれ花火」の打ち上げが終わると一般客は帰り、「人間耐寒テスト」が始まります。
屋台は終了し自動販売機は冷たい飲物のみという徹底ぶりですが、食べ物や飲み物を持参するのはOKなのでバーベキューをする人たちも多いそうです。
23:00に濡れタオルを素手で振り回して誰が1番早く凍らせることが出来るかというタオル回し大会が行われます。
その後は、翌朝7:00までひたすら耐え抜くというもので、途中で脱落する人もいるとか。
無事耐え抜いた人たちは認定証が貰えます。
また、人間耐寒テストに参加した人には朝食と温泉のサービスもあります!
人間耐寒テストは定員300名で参加費は1人6,000円で事前予約が必要です(毎年12月頃に予約が開始されます)
寒さに耐えきれる自信のある人はぜひ参加してみてください!
日本最低気温の雑学
<非公式ではもっと低い気温を記録していた日があった?!>
日本最低気温の日の由来となった北海道旭川市の-41.0℃という記録ですが、これは気象庁で観測したものです。
この記録は公式記録では現在まで塗り替えられていないのですが、実は、非公式の記録ではもっと低い気温を観測した場所があったのです。
1978年(昭和53年)2月17日に北海道幌加内町母子里にある北海道大学の演習林でマイナス41.2℃という国内最低気温を記録しました。
また、同じ日に同じ幌加内町母子里で-44.8℃を観測したともいわれています。
その他にも、1931年(昭和6年)1月27日に北海道天塩国中川郡美深町で観測された-41.5℃や、1953年(昭和28年)1月3日に北海道天塩国上川郡風連町(現在の名寄市)で観測された-45.0℃などが非公式の記録として残っています。
<日本最低気温の日に起こった八甲田雪中行軍遭難事件>
日本観測史上最低気温を北海道で記録した1902年1月25日に、日本近代登山史における世界最悪級の遭難事件が起こりました。
小説や映画にもなった「八甲田雪中行軍遭難事件」です。
この日は、北海道だけでなく日本中が大寒波に襲われていました。
八甲田山のある青森県内でも例年よりも8℃から10℃も低い気温だったようで、八甲田山に至っては-20℃近くまで気温が下がっていたのではないかと言われています。
日露戦争を控えていた日本陸軍は、寒冷地での行軍訓練・調査をするために青森の陸軍歩兵第五連隊と弘前の第三十一連隊が別々のルートから八甲田山に入山しました。
しかし、無事に全員生還した第三十一連隊と違い、第五連隊は雪山の中で遭難し210人中199人(うち6人は救出後死亡)が凍死してしまうという悲惨な結果になってしまったのです。
なぜ第五連隊がこのような結果になってしまったのかというと、この日が日本観測史上最大級の大寒波に見舞われたことと、隊員のほとんどが雪山に入った経験が無く、装備も計画もとても貧弱なものだったことが大きな原因だったと後に検証されています。
また、八甲田山の麓の村人たちも1月24日前後は毎年山が荒れるので山に入ってはいけないと忠告したにも関わらず、案内も付けずに入山したことや、責任者の神成大尉も雪山の知識が全く無かったために正しい判断ができず、山口少佐という別の指揮官が道が分かると言った隊員に案内するよう勝手に命じた上に道に迷うという事態に陥り、隊員たちは余計に混乱したのも原因とされています。
結果、隊員たちはバタバタと凍死していき、最後には途中で解散し各自で下山するように指示が出され、それまで何とか耐えていた隊員たちの中には発狂して裸になる人や川に飛び込む人などもいたそうです。
どうにか生き残った11人の隊員たちも凍傷が激しく、手足を切断したり指が無くなったりと五体満足の人はいませんでした。
この悲惨な事件は、その後の雪中行軍に対する装備や知識の必要性を見直すきっかけとなりました。
その後、1965年(昭和40年)から自衛隊第五普通科連隊は毎年2月に八甲田山で慰霊演習を行うようになったそうです。
もしも八甲田雪中行軍がこの日でなければ、こんな悲劇は起きなかったのでしょうか?
▪まとめ
いかがでしたでしょうか?
八甲田雪中行軍遭難事件の時は-20℃ほどだったと推測されていますが、吹雪も激しかったので体感気温は-50℃になっていたともいわれています。
冬には北海道だけでなく日本各地で寒さを楽しむイベントもありますが、きちんと防寒したうえで参加してくださいね。
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