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小笠原返還記念日とはいつ?意味や由来、イベントに返還記念祭

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▪はじめに

小笠原諸島とは、本州から南南東に約1,000㎞離れた場所にある島々のことです。

現在は観光地として人気の小笠原諸島ですが、かつて第二次世界大戦で日本が敗戦国となったことにより、アメリカの施政権下に置かれていました。

戦後20年以上経ってから小笠原諸島が日本に返還されると決まった日が、現在も記念日として残っています。

 

小笠原返還記念日と

小笠原返還記念日は、毎年4月5日にあります。

この記念日は、第二次世界大戦後からアメリカの施政権下に置かれていた小笠原諸島を日本に返還する協定が1968年(昭和43年)4月5日に結ばれたことに因んで制定された記念日です。

この協定が発効し実際に小笠原諸島が返還されたのは、同年の6月26日でした。

 

▪意味

小笠原返還記念日には、1968年(昭和43年)のこの日にアメリカ施政権下にあった小笠原諸島を日本の施政権下に返還するという協定が結ばれたことを記念するという意味があります。

 

▪由来

小笠原返還記念日は、1968年(昭和43年)の4月5日に第二次世界大戦後アメリカの施政下にあった小笠原諸島を日本に返還する協定が結ばれたことに由来しています。

 

▪イベント

小笠原諸島のうち、現在も人が住んでいる父島と母島では、毎年小笠原諸島が日本に返還された6月26日前後の週末に、「返還記念祭」が行われています。

 

小笠原村の中心地である父島では、島民による郷土芸能や小笠原に因んだ音楽ライブ、ダンスなどのステージイベントや小笠原村の特産品を中心とした夜店などが出店されます。

また、母島では前夜祭と本祭の2日間にかけて、島民による盆踊りやカラオケ大会、花火の打ち上げなどが行われます。

各団体による模擬店なども出店され、島民がデザインした返還記念オリジナルTシャツも販売されます。

 

小笠原村まではかなり遠いですが、行った人は必ず魅了されるといわれるほどなので観光も兼ねて小笠原村に行き、お祭りに参加してみてはいかがでしょうか。

小笠原村観光協会HP 

 

小笠原諸島の雑学

<小笠原諸島の名前の由来とは?>

小笠原諸島は、約5千万~3千万年前に誕生したとされている群島です。

15世紀ごろから始まったヨーロッパ人の大規模な航海により、スペイン、イギリス、オランダ、ロシアなどの船に小笠原諸島は発見されていたようですが、小さな無人島であったため、詳しい調査はされませんでした。

同じころ、鎖国中で発達した航海術を持っていなかった日本では、小笠原諸島の存在は知られていませんでした。

 

しかし、1669年(寛文9年)にミカンを運ぶ船が遭難し、無人島(小笠原諸島)に漂着したのち、約半年後に6人の乗組員が無事に生還し奉行所に報告したことでその存在が知られることとなりました。

この漂流事件は当時の江戸幕府も報告され、1675年(延宝3年)に調査団が派遣されて詳しい調査や地図の作成が行われ、「此島大日本之内也」と記した碑が設置され、これ以降「無人島(ぶにんじま)」と呼ばれるようになりました。

 

しかし、1727年(享保12年)に小笠原貞任という浪人が、「無人島は自分の先祖である小笠原貞頼が1593年(文禄2年)に発見し豊臣秀吉から小笠原家の領地として認められた場所だ」と訴え出てきたのです。

小笠原貞任は証拠として貞頼が書いたとされる「巽無人島記」を提出し、以後無人島は「小笠原島」と呼ばれるようになり、「巽無人島記」に記されていた父島・母島・兄島なども各島の名前の由来となりました。

 

しかし、「巽無人島記」に記されている島と小笠原諸島にはいくつかの違いがあるうえ、貞任自身も身分を偽ったとされ、貞任は財産没収と重追放となったとされていますが、現在でも小笠原貞頼が発見者として伝えられ、貞頼を祀った「小笠原神社」が父島にあります。

 

<小笠原諸島の最初の定住者は欧米人だった?>

19世紀に入ると捕鯨が世界的に盛んになり、小笠原諸島はイギリスをはじめとする世界各国の捕鯨船の寄港地となりました。

そして、1830年(天保元年)に欧米人5人と太平洋諸島民(ハワイ先住民)ら合わせて20数名が父島に移住し、母島とともに開墾していきました。

 

以後、小笠原諸島には捕鯨船に乗っていて病気になった人や捕鯨船での重労働に耐えられず脱走した者、漂流者、なんと島民を襲いに来た海賊に至るまで多種多様な人たちが集まっていき、人口が増えていったとされています。

グローバル化していった小笠原島は、どの国家の主権下にも属さない彼ら独自のコミュニティを築き、農業や漁業を行うとともに、捕鯨船へ野菜や水などを提供して暮らしていました。

 

そんな小笠原諸島が国際的に日本の領地と認められたのは1876年(明治9年)でした。

江戸時代、最初の調査以降も何度か調査に行こうと試みましたが、調査船が遭難したり藩の許可が下りなかったりと日本が直接小笠原諸島に関わることはできず、欧米人が定住したことにより、1853年(嘉永6年)にアメリカのペリーが小笠原諸島の領有権はアメリカにあると主張しました。

しかし、独自に小笠原諸島を発見していたイギリスと日本も領有権を主張します。

 

当時、小笠原諸島のような島の領有権は国際法で早い者勝ちとなっていたので、それぞれの国が主張しても問題の無い状態でした。

そんな状況の中、所有権を勝ち取ったのは日本でした。

これは、林小平という江戸時代の知識人が1785年(天明5年)に書いた「三国通覧図説」という地理書に小笠原諸島が日本の領土として書かれており、その本が出島を通してすでにヨーロッパ各国に出回っていたことが決定打になったといわれています。

 

また、江戸幕府の水野忠邦一行が島を訪れて島民たちを立ち退かせず財産の保護などを約束し、今後島に渡ってくる日本の開拓者たちと平和に暮らして欲しいと説得し、同意を得られたのも大きな理由の1つとなりました。

 

国際的に日本領と認められて以降、明治政府は小笠原諸島に日本人移住者を次々と送り出し、すでに定住していた外国人も帰化して、日本の領地として発展させていきました。

小笠原諸島の島々は開拓が進み、大正時代から昭和初期には7,000人を超える人が住んでいたといわれています。

 

しかし、第二次世界大戦勃発により島民の大半は本土に強制疎開させられ、小笠原諸島は戦場となりました。

硫黄島での戦いは歴史に残る惨劇で、日本とアメリカ両軍を合わせて約3万人の戦死者、約5万人もの負傷者を出したとされています。

 

戦後、小笠原諸島はアメリカの施政権下となり欧米系の島民のみ帰島を許されましたが、戦後23年経った1968年(昭和46年)に日本に返還され、日系の島民も帰島を許されました。

 

現在小笠原村(父島・母島)には約3,000人が定住していて、最初の入植者である欧米人の子孫も暮らしています。

 

▪まとめ

今回小笠原諸島のことを調べてみて、日本本土から遠く離れた小さな島々に特別な歴史があったことに驚きました。

それでも、様々な人種の人たちが共存しながら独自の暮らしを営んできたことに、本当の楽園とは小笠原諸島のような場所かもしれないとも思いました。

遠くて気軽に行ける場所ではありませんが、機会があればぜひ訪れて島の歴史や島独自の雰囲気などを体感してみてはいかがでしょうか。

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