「7月1日 函館開港記念日」
■はじめに
函館山から望む夜景、函館湾に向かって一直線に延びる八幡坂、土方歳三の五稜郭…なぜか旅情を誘う函館です。
目 次
函館開港記念日とは
7月1日は「函館開港記念日」になります。
実際に開港したのは1859(安政6)年6月2日ですが、1935(昭和10)年に函館市が新暦に合わせた7月1日を記念日としました。
■函館開港記念日の意味と由来
クロフネ4隻が浦賀沖に現れ、日本に開国を迫った翌年の1854(安政元)年、江戸幕府は日米和親条約を締結し、とりあえず下田と箱館(当時)を物資補給港として開港しましたが、他国からも条約締結を迫られたことで、1858年にはアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシアの5か国と安政五カ国条約締結の運びとなり、横浜、箱館、長崎、新潟、兵庫(当時)の開港が決まりました。
しかし、この条約は天皇勅許がないまま大老の井伊直弼が独断で締結したため、幕末の政情はより混迷を極め、安政の大獄や桜田門外の変につながって、倒幕運動が激化することになります。
このあたり歴史の授業では必修で、2021年の大河ドラマでも描かれることでしょう。
横浜、箱館、長崎は安政6年に開港しましたが、神戸と新潟の開港はそれより9~10年ほど遅くなっています。
幕府が開港を布告した安政6年5月28日にちなんで、新暦に相当する6月28日は「貿易記念日」とされています。
(当サイト6月28日「貿易記念日」参照)
■函館開港記念日のイベント
かつては7月1日に開港記念祭が開催され、学校や官公庁も休日になっていましたが、7月の記念祭期間中は天候の崩れることが多いため、1966(昭和41)年から記念行事はすべて8月に移されています。
このため残念ながら、学校の休日も廃止となってしまいました。
函館開港記念日の雑学
▽箱館から函館へ
箱館戦争、箱館奉行所、箱館府…日本史の中に出てくるのは「函館」ではなく「箱館」ですね。
そもそも函館は宇須岸(うすけし)と呼ばれる地でしたが、室町時代の武将、河野政通が開拓のために蝦夷地に渡り、宇須岸に建てた館が箱型だったことから「箱館」と呼ばれるようになったと言います。
その後、箱館戦争が終結し、蝦夷が北海道と改称されたのに伴って、箱館も函館と呼ばれるようになり、それ以後の記録は「函館出張開拓使庁」「函館県」などの表記になっています。
しかし、「九月三十日開拓使出張所を函館に置く、箱館の字を函館に改めたるは此時なり」という文書が残されているだけで、なぜ「箱」が「函」になったかは不明のままです。
同じような改称は他にもあって、もともと「大坂」と呼ばれた地域が江戸時代になると、「坂」は「土に反る(かえる)」と読めるので縁起が悪いとされ「大阪」とも呼ばれるようになり、1871(明治4)年、正式に「大阪」と変更されています。
明治政府が改称した理由は、「坂」が武士の反乱を連想させるからだとも言われています。
▽五稜郭と土方歳三
江戸幕府は箱館開港が決まると、箱館奉行所設置のための要塞「五稜郭」の建設に着手、総工費10万4千両と7年の歳月をかけた五稜郭は1864(元治元)年に完成しました。
五稜郭は当時の日本では珍しい星型の要塞で、これは15世紀のイタリアで始まった築城方式を採用し、外周1.8km、敷地は東京ドームの5倍の広さになります。
星型の理由は、堀で囲まれた先端に砲台を設置するためで、守りに重点を置く設計になっています。
五稜郭と言えば、真っ先に土方歳三(1835~1869)を思い浮かべる人がほとんどではないでしょうか。
江戸城が無血開城し、憤まんやるかたない江戸幕府の武士を糾合した海軍副総裁・榎本武揚とともに土方は、新政府を樹立すべく蝦夷地に渡ったことで、新政府軍や松前藩との箱館戦争が始まります。
やすやすと箱館奉行所のある五稜郭を占領した土方ら旧幕府軍でしたが、戦いが長引くにつれ物量に勝る新政府軍に押され始め、刀折れ矢尽きた土方は明治2年5月11日、馬上で銃弾に倒れました。
「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらむ」
この土方の辞世の句の「東の君」は、亡き盟友の近藤勇や沖田総司を想ったのか、あるいは新選組副長として守護すべき徳川慶喜を想ったのか、筆者には判断ができません。
■最後に
函館と時を同じくして開港した横浜は旧暦の日付そのままの6月2日を開港記念日とし、長崎は4月27日ですが、これはそれよりはるか以前にポルトガルの貿易船が入港した1571(元亀2)年4月27日にちなんだものです。
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