逢魔が時(おうまがとき)とは、「逢魔時」「逢魔が刻」「大禍時」などいろいろな言い方がありますが、字のごとくとても禍々しい時間帯を表しています。
人間は古来より、太陽が隠れて夜になることを恐れていました。
現代と違い、夜には灯りもなく、遠くまで見通すことができません。
また、その闇の中では、人目を気にすることもなくなるので、当然犯罪も多くなりなりました。
人間の欲が解放されるという時間でもあり、そのような時間帯を魑魅魍魎が蠢くと例えられてきました。
逢魔が時は、昼から夜へと誘う、まさに現世とあの世をつなぐ時間帯となっているのです。
目 次
逢魔が時とは
逢魔が時(おうまがとき)とは昼から夜に移り変わる、薄暗くなる夕方の時間帯をいいます。
大きな禍が起こる時という意味の大禍時(おおまがとき)ともいい、魔物に遭遇するする時間とも考えられていいます。
逢魔が時の時刻は
逢魔が時(おうまがとき)とは、黄昏時(たそがれどき)のことで、暮六つと言われる酉の刻です。
日本古来の時間表示法である「延喜法」では、24時間を十二支で表しており、一つの干支で2時間になります。
延喜法での酉の刻というのは現在の午後5時から7時を指しており、夕暮れどきという時間帯になります。
また黄昏時というのは、「黄」が太陽を表して、「昏」が闇を暗示する言葉でもあります。
黄昏時のことを「誰そ彼時」といいますが、これには諸説あります。
夕暮れどきは暗くなり、また沈みかけた太陽の光が眩しく、前にいる人が影でしか見えず、そこにいる彼が誰か判りにくくなる時間です。
そこから
「彼は誰?」
↓
「彼そ誰」
↓
「誰そ彼(だれそかれ)」
↓
「たそがれ」
↓
「黄昏時」
と変化したとされています。
また
「彼は誰?」
↓
「かれはだれ」
↓
「かはだれ」
↓
「かたわれ(片割れ)」
↓
「かたわれ時」
ともなったといわれています。
言葉の微妙な変化でこのようになったとされておりますが、夕暮れの影しか見えない状況で、いつの間にか相手を見失って、「片割れ」になってしまうからという考えがあるようです。
「彼はどこにいってしまったのだろう・・・」と物思いにふけっている状態が、「黄昏る(たそがれる)」になったとされています。
逢魔が時の意味
逢魔が時は妖怪や幽霊など怪しいものと出会う時間で、大禍時はとても不吉な時間を表しています。
いよいよ妖魔らの本領発揮といった時間となります。
古くから夕暮れというのは、太陽のある昼と太陽のない夜の切り替わるポイントでもあり、現世と常世(あの世)の境界ともされていました。
現在のように、夜に光が灯って明るいということはありませんので、昔は夜に対して恐怖や何か起こる時間と思っていました。
逢魔時のことを「大禍時(おうまがとき)」とも呼び、大きな禍(わざわい)がある時間とも考えられていました。
江戸時代の数々の妖怪の絵を描いていた浮世絵師である鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』には、「逢魔時」という絵が描かれており、古くからこの時間帯は妖魔が出てくる、「怪異と出会う時間」とされていたようです。
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江戸時代に描かれた、様々な妖怪達を知りたい方は、見てみる読んでみるといいでしょう。
一条百鬼夜行
「百鬼夜行」という言葉を一度は耳にしたことがあると思いますが、その百鬼夜行が現代に蘇えらせた所があり、それが「一条百鬼夜行」です。
「一条百鬼夜行」というのは、毎年秋に京都市一条通りの大将軍商店街で行われる妖怪の仮装行列です!
また、一条百鬼夜行と一緒に開催される、妖怪アートフリマの「モノノケ市」もあります。
毎年10月の第3土曜日に開催されますので、ハロウィンの前に、妖怪たちが練り歩く姿を見に行ってはいかがでしょうか。
もう一つ怪異と出会う時間といわれ、人も動物も草木さえも眠り、闇の中で生きるもの達がうごめく時間となる「丑三つ時」についてはこちらから
他にもいろいろな時刻が